エジプトへの逃避
la Fuite en Égypte




(上) Vittore Carpaccio, "la fuga in Egitto", c. 1515, Olio su tavola, 72 x 112 cm, National Gallery of Art, Washington DC


 「マタイによる福音書」 2章によると、東方の三博士が「ユダヤ人の王」を礼拝しに来たことを知ったヘロデ大王は、幼子の所在を知らせるように博士たちに依頼しますが、博士たちは夢で警告を受け、ヘロデの許に立ち寄らずにそのまま帰国します。これに怒ったヘロデは、新しい王の出現を阻止するため、エルサレムの祭司長や律法学者、占星術師たちから得た情報に基づいて、ベツレヘムに住む二歳以下の男児を皆殺しにしました。

 幼子の虐殺が起こる直前、天使がヨセフの夢に現れて、マリアとイエスを連れてエジプトに逃げるように、またヘロデ大王が死んだと知らせるまでエジプトに留まるように命じたので、ヨセフは夜が明ける前に聖母子を連れてベツレヘムから脱出し、辛うじて難を逃れました。「マタイによる福音書」 2章 13節から 15節、及び 19節から 23節を、ギリシア語原文(ネストレ=アーラント26版)と日本語(新共同訳)によって引用します。


  13  Ἀναχωρησάντων δὲ αὐτῶν ἰδοὺ ἄγγελος κυρίου φαίνεται κατ' ὄναρ τῷ Ἰωσὴφ λέγων, Ἐγερθεὶς παράλαβε τὸ παιδίον καὶ τὴν μητέρα αὐτοῦ καὶ φεῦγε εἰς Αἴγυπτον, καὶ ἴσθι ἐκεῖ ἕως ἂν εἴπω σοι: μέλλει γὰρ Ἡρῴδης ζητεῖν τὸ παιδίον τοῦ ἀπολέσαι αὐτό.      占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
  14  ὁ δὲ ἐγερθεὶς παρέλαβεν τὸ παιδίον καὶ τὴν μητέρα αὐτοῦ νυκτὸς καὶ ἀνεχώρησεν εἰς Αἴγυπτον,    ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
  15   καὶ ἦν ἐκεῖ ἕως τῆς τελευτῆς Ἡρῴδου: ἵνα πληρωθῇ τὸ ῥηθὲν ὑπὸ κυρίου διὰ τοῦ προφήτου λέγοντος, Ἐξ Αἰγύπτου ἐκάλεσα τὸν υἱόν μου.    ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
         
  19  Τελευτήσαντος δὲ τοῦ Ἡρῴδου ἰδοὺ ἄγγελος κυρίου φαίνεται κατ' ὄναρ τῷ Ἰωσὴφ ἐν Αἰγύπτῳ    ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、
  20  λέγων, Ἐγερθεὶς παράλαβε τὸ παιδίον καὶ τὴν μητέρα αὐτοῦ καὶ πορεύου εἰς γῆν Ἰσραήλ, τεθνήκασιν γὰρ οἱ ζητοῦντες τὴν ψυχὴν τοῦ παιδίου.    言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」
  21  ὁ δὲ ἐγερθεὶς παρέλαβεν τὸ παιδίον καὶ τὴν μητέρα αὐτοῦ καὶ εἰσῆλθεν εἰς γῆν Ἰσραήλ.    そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。
  22  ἀκούσας δὲ ὅτι Ἀρχέλαος βασιλεύει τῆς Ἰουδαίας ἀντὶ τοῦ πατρὸς αὐτοῦ Ἡρῴδου ἐφοβήθη ἐκεῖ ἀπελθεῖν: χρηματισθεὶς δὲ κατ' ὄναρ ἀνεχώρησεν εἰς τὰ μέρη τῆς Γαλιλαίας,    しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、
  23  καὶ ἐλθὼν κατῴκησεν εἰς πόλιν λεγομένην Ναζαρέτ, ὅπως πληρωθῇ τὸ ῥηθὲν διὰ τῶν προφητῶν ὅτι Ναζωραῖος κληθήσεται.    ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。


【聖書のテキストと解釈】

 新約聖書正典中、エジプトへの逃避を記録する「マタイによる福音書」は、キリスト教に既に改宗し、あるいはこれから改宗しようとするユダヤ人のために書かれた福音書です。それゆえこの福音書には、イエスこそが旧約で預言されたメシアであることを示すために、預言書をはじめとする旧約聖書の引用が多く見られます。そのため、「マタイによる福音書」を深く読み込むためには、旧約聖書の知識が必要です。以下では旧約聖書に基づいて、上のテキストに解釈を加えてゆきます。


・イエスと、その前表としての「幼かったイスラエル」(ホセア 11: 1)

 「創世記」 46章によると、カナンの地が飢饉に苦しんだとき、ヤコブとその家族はヨセフのいるエジプトに逃れました。「列王記 上」 11章によると、ダヴィデがエドムを征服したとき、エドムの王族の少年ハダドは家臣たちと共にエジプトに逃れ、ダヴィデの死後イスラエルに帰還して、ダヴィデの子ソロモンの敵対者となりました。

 同じく「列王記 上」 11章によると、ソロモンには七百人の妻と三百人の側室がおり、その多くが外国人でしたが、この女たちに影響されたソロモンは外国の神々を拝むようになり、神(ヤーウェ)の怒りを買いました。神はソロモンの王国を十二に分割し、十部族の居住地域を新王ヤロブアムに与えました。ソロモンはヤロブアムを殺そうとしましたが、ヤロブアムはエジプトに逃れ、ソロモンが死ぬまでそこに留まりました。

 バビロン捕囚のイスラエル人がバビロンからエジプトに逃れる例もありました(「列王記 下」 25: 26)。エレミヤと同時代の預言者ウリヤもエジプトに逃れました(「エレミヤ書」 26: 21)。


 これらの事例からもわかるように、カナンあるいはイスラエルを脱出する者は、多くエジプトに向かいました。イエスを探し出して殺そうとするヘロデ大王の企みを知った聖家族もまた、旧約時代の例と同様にエジプトに逃れ、ヘロデ大王の死後、イスラエルに戻りました。

 アッシリア捕囚時代の預言者ホセアは出エジプトの故事を引いて、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」という神の言葉を伝えています(「ホセア書」 11: 1)。マタイは上記 2章 15節において「ホセア書」のこの箇所を引用し、エジプトから戻ったイエスが「わが子」すなわち神の子メシア(キリスト)であることを示します。


・イエスと、その前表としてのモーセ

 紀元前 4年にヘロデ大王が死ぬと、イスラエル王国は大王の息子三人による分割統治となり、ヘロデ・アルケラオスは紀元前 4年から紀元 6年までサマリア(ユダヤの北)、ユダヤ、エドム(ユダヤの南)を、 ヘロデ・アンティパスは紀元前 4年から紀元 39年までガリラヤ(ガリラヤ湖西岸一帯)とペレア(ヨルダン川南半分の東岸から死海北東岸一帯)を、ヘロデ・フィリポスは紀元前 4年から紀元 34年までガリラヤ湖北東岸を含む広大な地域を、それぞれ父から受け継ぎました。

 エジプトでは天使がヨセフの夢に出てきて、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」(「マタイによる福音書」 2章 20節)と告げます。 しかしながらヘロデの後を継いだ三人のうち、ユダヤを治めるヘロデ・アルケラオスは父の残虐性を受け継いでいました。それゆえヨセフは聖母子を連れてユダヤに行くことを恐れ、夢のお告げに従って、より穏やかな性格のヘロデ・アンティパスが治めるガリラヤに向かい、そこに引きこもりました。(註1)


(下) Rembrandt, „Der Engel erscheint Josef in einem Traum“, 1645, Holztafel, 20 x 27 cm, Staatliche Museen, Berlin




 ところで、エジプトにおいてヨセフの夢に現れた天使は、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」(「マタイによる福音書」 2章 20節)と言っています。イエスの命を狙っていたのはヘロデ大王一人であるにもかかわらず、天使の言葉は複数形の主語と動詞を使って、「狙っていた者どもは、死んでしまった」(τεθνήκασιν... οἱ ζητοῦντες ) と記録されていますが、これは「出エジプト記」 4章 19節の引用であり、マタイはこの箇所でも旧約聖書を強く意識していることがわかります。「出エジプト記」 4章 19節をギリシア語(七十人訳)と日本語(新共同訳)によって引用します。


    εἶπε δὲ Κύριος πρὸς Μωυσῆν ἐν Μαδιάμ· βάδιζε, ἄπελθε εἰς Αἴγυπτον· τεθνήκασι γὰρ πάντες οἱ ζητοῦντές σου τὴν ψυχήν.   主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」


 「出エジプト記」のこの箇所を、「マタイによる福音書」 2章 20節「この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」(τεθνήκασιν γὰρ οἱ ζητοῦντες τὴν ψυχὴν τοῦ παιδίου.)と比較すると、明らかな類似性に気付きます。「狙っていた者どもは、死んでしまった」(τεθνήκασιν... οἱ ζητοῦντες ) の部分は全く同じです(註2)。

 イエスはヘロデ大王による幼子の殺戮を辛くも免れましたが、モーセもそれと同様に、ファラオによる幼子の殺戮を免れました(註3)。モーセに率いられたヘブライ人たちがエジプトからイスラエルに戻ったように、イエスもエジプトからイスラエルに戻り給いました。マタイはモーセをイエスの前表と見做し、またモーセの出エジプトを、イエスのエジプトからの帰還の前表と見做していることがはっきりとわかります。


(下) ポール・ドラロッシュ作 「ミリアムとモーセ」("Miriam and Moses") 191 x 125 mm 1890年代のフォトグラヴュア 当店の商品です。




・イエスと、その前表としての「虐殺と捕囚の生き残り」

 「マタイによる福音書」 2章 23節には、聖家族が「ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」とあります。しかしながらナザレという地名は旧約聖書に出てきません。それゆえナザレという名前の村が実在したことを否定する人たちがあります。ナザレらしき村の跡は発掘されていますが、その村が実際にナザレと呼ばれていた証拠は無いというのです。また「彼はナザレの人と呼ばれる」という聖句も、そのままの形では旧約聖書のどこにも現れません。それゆえ「彼はナザレの人と呼ばれる」という記述の意味に関して、ナザレという地名が存在しないことを前提にした解釈も為されています。

 古文書の著者は、自らの主張の信憑性を高め、思想を広めるために、意図的な虚偽を書き記す場合があります。この通例に従うならば、マタイは記述の信憑性を高める意図を持って、実在しない村ナザレの名前を書き記していることになります。しかしながら、もしも旧約の預言者が語っている地名をイエスの村の名にしたのなら、記述の信憑性は高まり、イエスがメシアであるという主張の裏付けにもなるでしょうが、わざわざ未知の地名を創出しても、そのような効果は望ことができません。それゆえ筆者(広川)の考えでは、ナザレという村がイエスの時代から実在していたとするほうが、よほど合理的です。ナザレという地名が旧約聖書に出てこないからといって、イエスの時代にその名前の村が実在しなかったという証拠にはなりません。


 マタイは、聖家族が「ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」と書いています。ナザレという村が当時実在したとして、「彼はナザレの人と呼ばれる」という言葉は、どの預言書の引用なのでしょうか。ここで注意すべきは、マタイが「預言者たち」(τῶν προφητῶν) という複数形を用いている事実です。マタイは特定の預言を引用せず、旧約聖書全体を貫く観念に言及しているのです。

 旧約聖書の時代において、ヘブライ人はたびたび虐殺と捕囚を経験しています。最初はエジプトにおける捕囚です。正確にいうとエジプトへの移住は強制的な連行ではありませんでしたが、ヨセフを知らないファラオはヘブライ人たちを虐待し(「出エジプト記」 1 - 2章)、エジプトからの脱出をなかなか許しませんでした。二回目はアッシリア捕囚、三回目はバビロン捕囚です。ダヴィデ王はイスラエル十二部族を統一し、その息子ソロモン王の時代まで統一は保たれましたが、ソロモンの死後、イスラエルは十二部族のうち十部族から成る北イスラエル王国と、残りの二部族から成るユダ王国に分裂します。北イスラエル王国は紀元前 8世紀半ばにアッシリアに滅ぼされ、数万人がニネヴェに連行されました。ユダ王国はその後もしばらく存続しましたが、紀元前6世紀初めにバビロニアに滅ぼされ、一万人以上がバビロンに連行されました。

 下に示した油彩画は、ドイツの画家エドゥアルト・ベンデマン (Eduard Julius Friedrich Bendemann, 1811 - 1889) が弱冠20歳の頃に制作した作品で、バビロンの流れのほとりで嘆くユダヤの捕囚たちを描いています。額の上部左右には、「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」(„An den Wassern zu Babylon saßen wir und weinten, wenn wir an Zion gedachten.“ 註4) という「詩編」137編 1節の詩句が、フラクトゥーア(ひげ文字)のドイツ語で引用されています。この作品はフランクフルト・アム・マインのユダヤ美術館に収蔵されています。


(下) Eduard Bendemann, „Die trauernden Juden an den Wassern von Babylon“ , auch bekannt als „Gefangene Juden in Babylon“ , nach 1832, Öl auf Leinwand, 71 x 103 cm, Jüdisches Museum, Frankfurt am Main




 旧約の預言書には、これらの虐殺と捕囚を生き残った者が「聖なる者」である、という考えが見られます。「イザヤ書」 4章 3節には次のように書かれています。

 そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。(新共同訳)

 「エレミヤ書」 23章 5 - 7節には次のように書かれています。

 彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。それゆえ、見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもはや、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる」と言って誓わず、「イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる」と言って誓うようになる。(新共同訳)

 「ゼファニヤ書」 3章 13節及び 20節には次のように書かれています。

 イスラエルの残りの者は/不正を行わず、偽りを語らない。その口に、欺く舌は見いだされない。彼らは養われて憩い/彼らを脅かす者はない。(新共同訳)

 そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で/お前たちの繁栄を回復するとき/わたしは、地上のすべての民の中で/お前たちに誉れを与え、名をあげさせると/主は言われる。(新共同訳)



 「彼はナザレの人と呼ばれる」という言葉は、旧約聖書のどこにもそのままの形では見出されないのですが、マタイが「預言者たち」の引用としてここで言っているのは、イエスが虐殺と捕囚を生き残った「聖なる者」である、ということです。単に居住地を表すべき「ナザレ人」という言葉が、なぜ「聖なる者」という意味に解釈できるのかというと、マタイは音の類似に基づいて「ナザレ人」と「ナジル人」(特別の誓願を立てて神に献身する人)を関連付け、イエスがナザレに住んだという表面的事実の内奥に、イエスが神に捧げられた「ナジル人」すなわち「聖なる者」となった、という内的意味を読み込んでいるのです。


 「マタイによる福音書」 2章 20節及び21節において、マタイが「イスラエルの地に(へ)」(εἰς γῆν Ἰσραήλ 註5) と言う表現を使っている事実も、この解釈を補強します。新約聖書において「イスラエル」という言葉が地名として使われているのはこの箇所だけです。

 「創世記」 35章 10 - 12節には次のように書かれています。

 神は彼に言われた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」神はこうして、彼をイスラエルと名付けられた。神は、また彼に言われた。「わたしは全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから/一つの国民、いや多くの国民の群れが起こり/あなたの腰から王たちが出る。わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地を/あなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える。」 (新共同訳)

 ヤコブはカナンを離れ、息子たちを引き連れてエジプトへ行きましたが、本来はカナンこそが神に与えられた土地でした。マタイはカナンを「イスラエル」あるいは「イスラエルの地」と呼ぶことによって、エジプトから帰ったイエスをヘブライ人の出エジプトと強く関連付け、エジプトでの捕囚から生還したヘブライ人たちが、「ナザレ人(すなわち、聖なる者)」イエスの前表であることを示しているのです。


【美術における「エジプトへの逃避」】

 伝統的なキリスト教美術において、「キリストの降誕」「キリストの受難」「聖母の悲しみ」「聖人の生涯」など、ひとつの大きなテーマを巡って聖堂壁面のモザイク画やフレスコ画、祭壇画等に連作が制作されることがあります。「エジプトへの逃避」は、同じ「マタイによる福音書」に記録されている「三王(あるいは三博士)の礼拝」及び「ベツレヘムの幼子の虐殺」とともに「キリスト降誕」の連作に組み入れられることもあり、あるいは「聖母の七つの悲しみ」の連作を構成することもあります。


 中世以来最も普通に見られる「エジプトへの逃避」の図像において、聖母子は驢馬(ろば)に乗っています。聖母子が驢馬から降り、ヨセフ、天使と共に休息する光景を描いた作品もよく見られます。下の写真はカラヴァッジオ (Caravaggio, 1571 - 1610) が 1595年頃に描いた油彩作品「エジプトへの逃避における休息」です。旅に疲れた聖母子が眠る傍らで、天使のヴァイオリンが単旋律の聖歌を奏でています。バロック式の弓がいかにも16世紀らしい作品です。


(下) Caravaggio, "Riposo durante la fuga in Egitto", 1595 - 1596, Olio su tela, 135.5 x 166.5 cm, la Galleria Doria Pamphilj, Roma




 下の写真は 19世紀のフランスで制作された石膏あるいは漆喰による彫刻です。聖家族は天使に守られて椰子の木陰で休息しています。傍らでは驢馬が水を飲んでいます。


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 美術作品の画面構成は、外典を典拠にする場合や、外典を直接的な典拠にしないまでも、外典から少なからざる影響を受けている場合が多くあります。

 新約外典「セラピオンによる洗礼者ヨハネ伝」によると、洗礼者ヨハネとその母エリザベトは、ヘロデ大王による幼子の虐殺を逃れるために、パレスチナの荒れ野で暮らしました。ヘロデ大王が死んだ日、エリザベトもまた亡くなり、七歳半のヨハネは荒れ野に一人残されて、母の遺体のそばで泣いていました。エジプトにいながらにしてそのことを知ったイエスは、母マリア、マリアの姉妹サロメとともに輝く雲に乗ってパレスチナの荒れ野に向かい、ヨハネを慰めるとともに、ミカエルとガブリエルに命じてエリザベトを埋葬させました。

 下に示したのはルネサンス期の画家フラ・バルトロメオ (Fra Bartolomeo, 1472 - 1517) による作品です。この作品は「セラピオンによる洗礼者ヨハネ伝」の内容をそのまま描いたのはありませんが、イエスとヨハネを幼いときに出会わせている点で、やはり外典の影響を受けています。なお外典に基づく美術表現は、1545 - 1563年のトリエント公会議以降少なくなってゆきます。


(下) Fra Bartolomeo, "Riposo durante la Fuga in Egitto", 1500 circa, tempera e olio su tela, 135 x 114 cm, Palazzo Vescovile, Pienza




 16世紀以降、キリストや聖母、聖人、異教の神々を前景に描きつつ、人物を取り巻く風景を重視した構図の作品が盛んに描かれるようになりますが、「エジプトへの逃避」に関しても、旅する聖家族を広大な自然の風景の中に描いた作品が多くなります。下に示した作品はアンニバーレ・カラッチ (Annibale Carracci, 1560 - 1609) による 1604年の油彩「エジプトへの逃避のある風景」で、縦 1.2メートル、横 2.3メートルという半円形の大きなスペースに、川を渡った聖家族を描きます。遠景には滝が流れ落ちる優美な建物や子羊を抱いた羊飼い、白馬、エキゾチックなラクダなどが描かれ、小さく描かれた前景の人物だけでなく、画面全体を鑑賞する作品となっています。


(下) Annibale Carracci, "Paesaggio con la fuga in Egitto", 1604, olio su tela, 122 × 230 cm , la Galleria Doria Pamphilij, Roma




 19世紀後半には新約聖書をテーマに多数のオリエンタリズム絵画が描かれましたが、「エジプトへの逃避」も主題のひとつとなりました。


 次に示す作品はリュック=オリヴィエ・メルソン (Luc-Olivier Merson, 1846 - 1920) が 1880年頃に制作した油彩画「エジプトへの逃避における休息」です。ヨセフは焚火の傍に、聖母子はスフィンクスの前脚の間に、それぞれ眠っています。

 スフィンクスはエジプトの神々とファラオの力を象徴しますが、その前で小さくなってゆく残り火は、まさに消えようとする祭壇の火のようです。一方、「ソール・ユースティティアエ」(SOL JUSTITIAE ラテン語で「義の太陽」の意 「マラキ書」 3: 20)、「ソール・インウィクトゥス」(SOL INVICTUS ラテン語で「不敗の太陽」の意)である幼子イエスからは、世に来てすべての人を照らす光(「ヨハネによる福音書」 1: 9)が明るく輝いています。

 リュック=オリヴィエ・メルソンはこの作品において、消えかけた焚火と夜の闇によって滅びゆくエジプトの多神教を象徴させる一方、幼子イエスから発する光によって新しく生まれつつあるキリスト教を象徴させています。この作品はニース美術館に収蔵されています。


(下) Luc-Olivier Merson, "Le repos pendant la fuite en Égypte", 1880, Huile sur toile, 133 x 77 cm, Musée des Beaux-Arts de Nice




 下の作品はジャン=レオン・ジェローム (Jean-Léon Gérôme, 1824 - 1904) が 1897年のサロン展に出品した作品のための習作です。この習作はジェロームの生まれ故郷であるフランス東部ヴズール(Vesoul フランシュ=コンテ地域圏オート=ソーヌ県)のジョルジュ=ガレ美術館 (le musée Georges-Garret) に収蔵されています。肝心の完成作品はサロン展で展示された後行方不明になっていましたが、2013年12月になって、物置に放置されているのが偶然見つかりました。

 習作は昼間の光景で、頭上を飛ぶ天使が聖母子のために蔭を作っています。一方、完成作は夜の光景で、旅する聖家族は満月に照らされています。「エジプトへの逃避」はジェロームによる数少ない宗教画のひとつです。


(下) Jean-Léon Gérôme, "la fuite en Égypte", c. 1897, huile sur toile, musée Georges-Garret, Vesoul



 2013年に見つかった完成作品




註1 ヘロデ大王からガリラヤとペレアを引き継いだヘロデ・アンティパスは、ヘロデ・アルケラオスと同じ母から生まれた弟で、洗礼者ヨハネの斬首を命じた人物であり、イエスが十字架に架かり給うたときの王でした。しかしながら常軌を逸した残虐性で知られた父ヘロデ大王や、領民から暴君であるとローマに訴えられて紀元 6年に廃位された兄ヘロデ・アルケラオスと比べれば、ヘロデ・アンティパスの性格は穏やかであったようです。

 ヘロデ・アンティパスはヘロディアという女と結婚しましたが、このヘロディアは異母兄弟ヘロデ・フィリポスが離別した妻でした。しかるに兄弟の離別した妻と結婚することは、当該の兄弟が存命中である場合、トーラー(律法)の規定に反します。それゆえ洗礼者ヨハネはヘロデ・アンティパスとヘロディアの結婚を激しく非難しました。これを疎ましく思ったヘロディアはヨハネを殺害したいと考えていましたが、ヘロデ・アンティパスは妻の悪意からヨハネを保護していました。ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネの斬首を命じざるを得なくなったのは、いわば妻の計略に掛かったためでした。「マルコによる福音書」 6章 20節には次のように書かれています。

  ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。(「マルコによる福音書」 6: 20 新共同訳)

 ヨハネを斬首した責任がヘロデ・アンティパスにあることは確かですが、その一方で、ヘロデ・アンティパスにはヨハネの教えに進んで耳を傾けるだけの気持ちもあったことがわかります。


 イエスがエルサレムで捕えられ、ローマ総督ピラトの許に送られたとき、ヘロデ・アンティパスはエルサレムに滞在中でした。ピラトはイエスがガリラヤ人であることを知ると、ガリラヤとペレアを管轄するヘロデ・アンティパスのもとに、イエスの身柄を送りました。このときのことについて、「ルカによる福音書」 23章 8 - 12節には次のように記録されています。

 彼(広川註 ヘロデ・アンティパスを指す)はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。(「ルカによる福音書」 23: 8 - 12 新共同訳)

 ヘロデ・アンティパスは兵士と一緒になってイエスを侮辱していますから善人とは言えませんが、ヨハネと同様にイエスも預言者と見做し、一定の関心を向けていたことは分かります。


註2 "τεθνήκασιν" と "τεθνήκασι" は同じです。ギリシア語動詞の三人称複数形の語末には、口調の関係で、ニュー (ν)が付いたり付かなかったりします。


註3 「出エジプト記」の冒頭には、イスラエル人(ヘブライ人)たち、すなわちヨセフとその父ヤコブ、及びヨセフの兄弟たちの子孫がエジプトで繁栄し、ヨセフを知らないファラオの下で抑圧されつつも、強大な勢力になったと語られています。ファラオはイスラエル人を虐待して生活水準を落とし、それによって彼らの勢いを殺(そ)ごうとしましたが、うまくゆきませんでした。そこでファラオはイスラエル人に生まれる男の子を殺すように定めました。のちにイスラエル人の指導者となり、エジプト脱出を指揮するモーセは、生後三か月の頃、ナイル河畔のパピルスの繁みに置かれましたが、ファラオの王女に助けられ、姉ミリアムの機転によって、乳母を装う実母に育てられることになりました。「出エジプト記」 1章 15節から 2章 10節を、新共同訳により引用いたします。

       エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」 助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」 神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」
     レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」


 こうしてファラオの王女の子となったモーセはエジプトで最高水準の教育を受けました。「使徒言行録」 7章 22節で、ステファノは「そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました」と述べています。1世紀の歴史家フラウィウス・ヨセフス (Flavius Josephus, c. 37 - c. 100) によると、モーセはファラオの後継者として教育されました。そして実際にモーセはイスラエル人の優れた指導者となり、エジプトからの脱出を指揮することになります。


註4 詩編 137編を新共同訳によって引用いたします。

    バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。

どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。

エルサレムよ/もしも、わたしがあなたを忘れるなら/わたしの右手はなえるがよい。
わたしの舌は上顎にはり付くがよい/もしも、あなたを思わぬときがあるなら/もしも、エルサレムを/わたしの最大の喜びとしないなら。

主よ、覚えていてください/エドムの子らを/エルサレムのあの日を/彼らがこう言ったのを/「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。」
娘バビロンよ、破壊者よ/いかに幸いなことか/お前がわたしたちにした仕打ちを/お前に仕返す者
お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。


註5 「エイス・ゲーン・イスラエル」(εἰς γῆν Ἰσραήλ) というこの表現において、「イスラエル」(Ἰσραήλ) は「ゲーン」(γῆν) の同格語となっています。「ゲーン」はギリシア語で「土地」を表す「ゲー」(γῆ) の単数対格形です。




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