天使のパン
PANIS ANGELORUM, PANIS ANGELICUS




(上) 「見よ、天使のパンを」(ECCE PANIS ANGELORUM)  イタリアの小聖画 20世紀初頭


 「天使のパン」(pain des anges, PANIS ANGELORUM) とは、天使を存在せしめ、天使を活かし給う神のことです。また「人のパンとなった天使のパン」とは、実体変化を起こした聖体パンのことです。


【トマス・アクィナスの思想における「天使のパン」】

 「天使のパン」という言葉は、トマス・アクィナス (St. Thomas Aquinas, c. 1225 - 1274) が書いた「サクリース・ソレムニイース」(SACRIS SOLEMNIIS) に「パーニス・アンゲリクス」 (PANIS ANGELICUS) という形で出てきます。

 「パーニス・アンゲリクス」の「アンゲリクス」は形容詞ですから、直訳すると「天使的なパン」「天使のようなパン」となりそうに思いますが、トマスはここでは名詞の属格の代用として形容詞を使い、「天使に属するパン」「天使のものであるパン」という意味で「パーニス・アンゲリクス」と言っています。古典ラテン語ならば複数属格の名詞を用いて「パーニス・アンゲロールム」(PANIS ANGELORUM) と言うはずのところです。(註1)

 下に訳出したように、トマスは「サクリース・ソレムニイース」において、「天使のパンが、人のパンになる。」(PANIS ANGELICUS FIT PANIS HOMINUM.) と書いています。トマスは人間に与えられ、人間が食べる聖体を「人のパン」(PANIS HOMINUM) と呼び、この「人のパン」すなわち聖体が、もともと「天使のパン」(PANIS ANGELICUS) であった、と考えていることが分かります。この表現を理解するには、13世紀のスコラ哲学における存在論と認識論(註2)について知る必要があります。


 トマスによると、人間がその本性に従った認識の仕方によって神(神の本質)を認識することは、まったく不可能です。その理由は次の通りです。

 質料と本質の複合である人間には肉体があり(註3)、感覚器官を通して可感的事物を認識します。したがって「感覚器官を通して可感的事物を認識する」というこの認識の仕方こそが、人間の本性に従った認識の仕方です。いっぽう眼に見えないものを知性認識する場合においても、人間の知性はこれを直接的に認識することができず、可感的事物との「類比」(アナロギア ANALOGIA)によって認識を行います。しかるに可感的事物と神の間には、無限の隔絶があります。したがって人間の知性は、肉体と結合したままの状態では、神(神の本質)を知性認識することができません。地上にある人間の知性が神を「直観」(INTUERI) することはできないのです。

 これに対して天使は純粋な知性、すなわち肉体を持たずに自存する知性です。肉体が無いので感覚器官も有しません。それでは天使がどのようにして認識を行うのかというと、肉体に縛られることなく自存する知性である天使は、神を直観するのです。天使はまず神を直観し、次に神を通してすべての物事を認識します。トマスによると、天使が知性認識するべき内容を、神は天使に「注入」(INFUNDERE) します。


 人間の知性による神の認識と、天使の知性による神の認識の違いについて、トマスは以上のように考えています。トマスが聖体を「天使たちのものであるパン」(PANIS ANGELICUS) と表現する理由が、この説明でお分かりいただけたことと思います。(註4)

 パンが実体変化を起こして聖体となると、それは「キリストの御体」、すなわちキリスト、すなわち神に他なりません。神は肉体に縛られずに自存する知性、すなわち天使によってのみ把捉、認識されるはずです。ところがイエズスがエウカリスチアを定め給うたことにより、肉体を持つ人間が聖体を食べて、神を内に取り込み、神と一つになることができるようになりました。「天使のパンが、人のパンになる。」というトマスの言葉は、このことを表しています。


【サクリース・ソレムニイース】

 トマスの「サクリース・ソレムニイース」は、聖体の祝日(註5)の朝課に歌われます。ラテン語テキスト全文と日本語訳を示します。日本語訳は筆者(広川)によります。

    Sacris solemniis juncta sint gaudia,
Et ex pracordiis sonent praconia;
Recedant vetera, nova sint omnia,
Corda, voces, et opera.
  典礼暦の祝いに因んで、大いに喜びがあるように。
心の奥底から、賛美が響くように。
心も、声も、手の業も、
古きが過ぎ去り、全てが新しくなるように。
         
    Noctis recolitur coena novissima,
Qua Christus creditur agnum et azyma
Dedisse fratribus, juxta legitima
Priscis indulta patribus.
  かの夜の最後の晩餐が再現される。
最後の晩餐において、キリストは、羊と種なしパンを
兄弟たちに与えたと信じられている。
太祖たちに対して認められた法に従って。
         
    Post agnum typicum, expletis epulis,
Corpus Dominicum datum discipulis,
Sic totum omnibus, quod totum singulis,
Ejus fatemur manibus.
  前表である羊が食べられた後、晩餐が終わり、
主の御体が弟子たちに与えられた。
ひとりひとりに御体全てが与えられ、そのようにして全員に御体全てが与えられた。
主の御体はキリストの両手で弟子たちに与えられたと、我々は証言する。
         
    Dedit fragilibus corporis ferculum,
Dedit et tristibus sanguinis poculum,
Dicens: accipite quod trado vasculum;
Omnes ex eo bibite.
  キリストは弱い者たちに、その御体という食物を与え給い、
悲しむ者たちに、その御血という飲み物を与え給うた。
我が渡す器を受けよ、
皆この器から飲め、とのたまいて。
         
    Sic sacrificium istud instituit,
Cujus officium committi voluit
Solis presbyteris, quibus sic congruit,
Ut sumant, et dent ceteris.
  キリストはこのようにして、かの犠牲(註6)を定め給うた。
キリストは、犠牲を捧げるその職務が
司祭らのみに委ねられることを欲し給い、司祭らとひとつになり給うた。
すなわち、司祭らのみが犠牲の職務を為し、司祭らのみが他の者たちに与えるように、し給うたのである。
         
    Panis angelicus fit panis hominum;
Dat panis caelicus figuris terminum;
O res mirabilis: manducat Dominum
Pauper servus et humilis.
  天使のパンが、人のパンになる。
天のパンにより、数々の前表が終わりを告げる。
なんと驚くべきことであろう。
貧しく卑しき僕(しもべ)が主を食べるとは。
         
    Te, trina Deitas unaque, poscimus:
Sic nos tu visita, sicut te colimus;
Per tuas semitas duc nos quo tendimus,
Ad lucem, quam inhabitas.
  三位にしてひとつの神よ。私たちはあなたに求めます。
私たちがあなたを崇めるとき、あなたは私たちを訪れてください。
私たちを導いて、あなたの道を通らせてください。私たちは向かいます、
あなたが住まわれる光のほうへ。


【セザール・フランク 「パーニス・アンゲリクス」の詞の意味】

 上の日本語訳は筆者(広川)によるもので、意味の取りやすさを優先して説明的に語句を補ったために、垢ぬけない散文になってしまいました。拙訳からはうかがい知ることができませんが、トマスの「サクリース・ソレムニイース」は、韻文としてもすぐれて美しい作品です。有名な第6スタンザを例に改行を増やすと、押韻の見事さがよくわかります。

    Panis angelicus
fit panis hominum;
Dat panis caelicus
figuris terminum;
O res mirabilis:
manducat Dominum
Pauper servus
et humilis.

 この第6スタンザにはセザール・フランク (César Auguste Jean Guillaume Hubert Franck, 1822 - 1890) が美しい曲を付けましたので、ご存知の方も多いでしょう。

 第6スタンザの冒頭、「天使のパンが人のパンになる」という部分は、「本来天使たちだけのものであるはずの神、すなわち天使の知性のみが直観できるものであるはずの神が、肉体を持つ人間に与えられ、人間が摂り入れるものとなる」という意味です。肉体を持たない天使には口も消化器官もありませんから、聖体を拝領することはありませんが、ここでは人間の霊的生命の糧ともいうべきキリストの御体、聖体を、「人のパン」(panis hominum 人々のものであるパン)と言っていますので、これに合わせた詩的表現として、天使に直観される神あるいはキリストを「天使のパン」(panis angelicus i. e. angelorum 天使たちのものであるパン)という言葉で表しています。これはトマスが神あるいはキリストを「天使のパン」、すなわち「本来天使たちだけのものであるパン」と呼ぶ認識論的な理由です。

 トマスが神あるいはキリストを「天使のパン」と呼ぶには、もうひとつ、存在論的な理由があります。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイによる福音書 4章4節)ゆえに、聖体、すなわち人間の魂と精神を活かす神からの恩寵を、トマスは「人のパン」と呼んでいます。しかしながら神を直観し、神と共にある天使たちもまた、あたかも人が常にパンを必要とするように、常に神を必要としています。なぜなら天使にエッセ(esse 存在するというはたらき)を与え、天使を存在せしめているのは神だからです。天使は質料を持たずに「自存する本質」「自存する知性」(intellectus subsistens, intellectus subsistentes) ですが、神のように完全な意味で自存 (subsistere 他の何にも依存せずに存在する) しているのではなく、神のエッセを分有することではじめて存在し得ているのです。したがって神は天使たちが存在し続けるために必要不可欠な「糧」であるのです。


 次の「天のパンにより、数々の前表が終わりを告げる」、直訳すると「天のパンが数々の前表に終わりを与える」という部分は、エウカリスチア(聖体拝領)がキリストの受難の再現であることを言っています。すなわちイエズス・キリストはおよそ二千年前、過ぎ越しの祭に際して、全ての人の罪を購(あがな)うアグヌス・デイ(Agnus Dei 神の子羊)として受難し給うたのですが、歴史において起こったこの受難とミサごとに繰り返されるエウカリスチアはまったく同じものであり、キリストはエウカリスチアのたびに、いまも日々受難されているのです。
 しかるに旧約時代からの前表はすべて、究極的にはキリストの受難を指し示しているということができます。
 したがってキリストの受難と同じものであるエウカリスチア(聖体拝領)は、旧約時代の前表の成就であるということができます。「天使のパン」(聖体)を拝領することにより、旧約時代に前表として表されていたキリストの受難が実現し、前表に終止符が打たれるのです。


 ちなみに「パーニス・アンゲリクス」の代わりに「パーニス・アンジェリクス」と歌っているのを耳にしたことがあります。アンジェリクスというのはガリアにおける中世ラテン語の発音で、私は聞き苦しく感じるのですが、トマスが13世紀のパリ大学で教鞭を執っていたことを思うと、そのような非正統的発音が為されても仕方が無いのかもしれません。




(上) 「見よ、天使のパンを」(Voici le Pain des Anges)  エリオグラヴュールによるフランスの小聖画 1924年 当店の販売済み商品


【詩篇における「天使のパン」】

 「天使のパン」はもともと 詩篇 78:25に出てくる言葉で、新共同訳では

人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。

となっています。


 ヒエロニムスのヴルガタ訳では次のようになっています。

Panem fortium (*) comedit vir. Cibaria misit eis in saturitatem. (Psalmus 77:25)  * panem fortium  力ある方たちのパン


 ラテン語の他の版においては次のようになっています。

Psalterium Romanum: Panem angelorum (**) manducavit homo. Frumentationem misit eis in abundantiam. (Psalmus 77:25)  ** panem angelorum  天使たちのパン

Psalterium Gallicianum: Panem angelorum (**) manducavit homo; Cibaria misit eis in abundantia. (Psalmus 77:25)

Psalterium Neo-Vulgatum: Panem angelorum (**) manducavit homo; Cibaria misit eis ad abundantiam. (Psalmus 78:25)



註1 トマスに限らず、中世ラテン語では名詞の属格を形容詞で置き換える傾向があります。トマスのラテン語においても "ESSENTIA DIVINA" (神の本質 "ESSENTIA DEI"の意)等の表現が頻出します。


註2 存在論 (ONTOLOGIA, Ontologie) とは哲学の一分野で、「ものが『存在する』とは、そもそもどういうことか」ということに関する理論です。認識論 (EPISTEMOLOGIA, Erkenntnistheorie) もやはり哲学の一分野で、「人間、天使、神の知性は、どのようにして他者を認識するのか」ということに関する理論です。


註3 トマスの存在論はアリストテレスに依拠しています。アリストテレスによると、可感的事物(感覚器官によって捉えられ得るもの。人間その他の動植物や、水、岩石などの無生物)はすべて質料(ヒュレー ὕλη あるいはマテリア MATERIA)と本質(ウーシア οὐσία あるいはエッセンチア ESSENTIA)の複合によって成立しています。無規定の質料が基体(ヒュポケイメノン ὑποκείμενον あるいはヒュポスタシス ὑπόστασις、ラテン語ではスブイェクトゥム SUBJECTUM あるいはスブストラートゥム SUBSTRATUM)となり、本質を分有 (PARTICIPARE) することによって、可感的事物(単数形 SENSIBILE 複数形 SENSIBILIA)が成立します。肉体を持つ人間をはじめ、あらゆる可感的な物質、物体は、質量と本質の複合です。

 これに対して肉体を持たない天使は、自存する(すなわち質量と結合せずに存在する)本質であり、肉体を持たない離在知性(インテッレークトゥス・セーパーラートゥス INTELLECTUS SEPARATUS)です。肉体と結合した人間の知性は神を直観できませんが、離在知性は神を直観できます。


註4 トマスは「スンマ・テオロギアエ」の次の箇所において、それぞれの問題を論じています。

人間の知性による神認識について (QUOMODO ANIMA HUMANA COGNOSCAT EA QUAE SUPRA SE SUNT) Ia pars, q. 88

人間の肉体を離れた知性による神認識について (DE COGNITIONE ANIMAE SEPARATAE) Ia pars, q. 89

天使の知性による神認識について (DE HIS QUAE PERTINENT AD ANGELORUM INTELLECTUM) Ia pars, qq. 54 - 58


註5 「聖体の祝日」は 1264年、教皇ウルバヌス4世によって制定されました。「三位一体の主日」のあとの木曜日に当たりますが、現在の日本では「三位一体の主日」のあとの日曜日に祝われています。

 「三位一体の主日」は移動祝日ですから、「聖体の祝日」の日付も年によって変わります。


註6 受難の再現である聖体拝領のことを言っています。



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