バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ガルド (守護の聖母のバシリカ)
La Basilique Notre-Dame-de-la-Garde, Marseille





 マルセイユのシンボル、バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ガルド (La Basilique Notre-Dame-de-la-Garde, Marseille) は、ニーム出身のマルセイユの建築家エスペランデュ (Henri-Jacques Espérandieu, 1829 - 1874) が設計した小バシリカで、1853年9月11日に定礎され、1864年6月5日に献堂されました。

 バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドはマルセイユの南端、市街を見はらす標高 149メートルの石灰岩上に建っており、ロマネスク・ビザンティン様式の地上の聖堂と、ロマネスク様式の地下聖堂に分かれています。地上の聖堂は、身廊の長さ 32.7メートル、幅 14メートルと、それほど大きな面積ではありません。バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドには高さ 41メートルの大規模な鐘楼が付属していますが、さらにその上に高さ 12.5メートルの塔があり、これを基台として、高さ 11.2メートルの巨大な聖母子像「ノートル=ダム・ド・ラ・ガルド」(Notre-Dame de la Garde 守護の聖母)が据えられています。
 聖母子は銅製ですが、金に覆われて金色に輝いています。聖母子像はマルセイユ市街からも海上からもよく見えて、市民からは「ラ・ボンヌ・メール」(優しい聖母さま)として親しまれています。


【ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドの歴史 - 13世紀から19世紀半ばまで】

 現在のバジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドは 19世紀の建築ですが、その起源は 13世紀に建てられた同名の聖堂に遡ります。

 マルセイユの殉教者聖ヴィクトル (St. Victor de Marseille, + 303/304) の墓所に、5世紀、聖ジャン・カシアン (St. Jean Cassien, 360/365 - 433/435) がサン=ヴィクトル修道院 (L'abbaye Saint-Victor de Marseille) を創建しました。マルセイユのサン=ヴィクトル修道院は中世プロヴァンスにおいて最も重要な修道院ということができ、14世紀には修道院長ギュイヨーム・ド・グリモアール (Guillaume de Grimoard, 1310 - 1370) は教皇ウルバヌス5世 (Urbanus V 在位 1362 - 1370) となっています。


【下】 サン=ヴィクトル修道院 カマルグのサント=マリ=ド=ラ=メール、アルビの司教座聖堂サント=セシル等と並ぶ要塞化した教会建築の例です。




 バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドが現在建っている丘は、13世紀当時、サン=ヴィクトル修道院の所領でした。1214年、マルセイユの隠修士ピエールが、聖母マリアに捧げた聖堂をこの地に建設したいと願い、サン=ヴィクトル修道院はこれを許可しました。1218年6月18日の教皇ホノリウス3世の回勅において、ノートル=ダム・ド・ラ・ガルド聖堂がサン=ヴィクトル修道院の財産として言及されていますので、このときまでに建設が完了していたことがわかります。

 1256年にピエールが亡くなって以降に、ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドはサン=ヴィクトル修道院の4つの分院のひとつとなりました。ピエールの聖堂は15世紀初めに、より大きな規模の聖堂に改築されました。この15世紀の聖堂には、天使ガブリエルに捧げられた礼拝堂が設けられていました。

 ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドは多くの人々の崇敬を集め、とりわけ16世紀末以降には、海難事故から守ってくれる守護の聖母として知られるようになりました。

 1516年1月22日、マルセイユとノートル=ダム・ド・ラ・ガルドを訪れた当時21歳のフランス国王フランソワ1世 (François Ier, 1494 - 1547) は、マルセイユの防備が不十分であることを憂慮しましたが、その不安は的中し、8年後の 1524年、イタリア戦争の際に攻囲されたマルセイユは陥落寸前の事態に陥りました。(註1) このことがきっかけで、フランソワ1世はマルセイユ防備のためにふたつの城砦、すなわちマルセイユ湾内のイフ島にシャトー・ディフ (le château d'If 註2)、ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドの岩盤上に聖堂と一体となった砦を建設することを命じます。こうしてシャトー・ディフは 1531年、ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドの城砦は 1536年にそれぞれ完成しました。


 シャトー・ディフ


 1720年、マルセイユにペストが上陸したとき(註3)、当時のマルセイユ司教ド・ベルザンス師 (Mgr. Henri François-Xavier de Belsunce-Castelmoron, 1671 - 1755) は三度にわたってノートル=ダム・ド・ラ・ガルドを訪れて聖母に救いを求め、マルセイユを祝福しました。

 フランス革命時の 1793年11月23日、ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドの聖堂は使用停止となりました。聖堂には1661年に製作された銀の聖母像が安置されていましたが、この聖母像は 1794年5月13日にマルセイユに運ばれ、融かされて銀貨にされてしまいました。ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドにあったその他の物も競売にかけられ、ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドは国有財産となりました。

 フランス革命時には聖堂そのものも破壊される危険がありましたが、聖母に深く帰依する近在の船乗りエスカラマーニュ氏 (Joseph-Elie Escaramagne) が年間 600フランの地代で政府からここを借り上げたため、ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドは破壊を免れ、革命の混乱が収まった 1807年4月4日に聖堂として復活しました。(註4)

 その後ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドに参詣する人が増えたので、身廊を延長して聖堂の床面積を約 150平方メートルから約 250平方メートルに拡張する工事が行われました。工事は 1833年に完了し、改築された聖堂の祝別は 1834年に行われました。

 また革命時に融かされた聖母に代わる聖母像が計画されました。新しい聖母像はパリの彫刻家ジャン=ピエール・コルト (Jean-Pierre Cortot, 1787 - 1843) の意匠に拠るもので、マルセイユの銀細工職人シャニュエル (Jean-Baptiste Chanuel) の工房において5年がかりで製作され、1837年7月2日に祝別されました。


 シャニュエルの手による銀の聖母


 1843年には鐘楼が落成し、1845年には重量 8,234キログラムの大鐘が設置されました。


【ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドの歴史 - 19世紀半ばから現在まで】

 1850年以降、ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドの聖堂を改築する計画が持ち上がりました。コンペに参加したプランの審査が1852年12月30日に行われて、数々のネオ・ゴシック式プランのなか、唯一ロマネスク・ビザンティン式のプランが選ばれました。これはレオン・ヴォドワイエ (Léon Vaudoyer, 1803 - 1872) の名で提出されていましたが、実際はヴォドワイエの弟子である当時23歳の若手建築家エスペランデュ (Henri-Jacques Espérandieu, 1829 - 1874) が設計したものでした。1853年6月23日、エスペランデュは主任建築家に指名され、同年9月11日にはマルセイユ司教ド・マズノ師 (St. Eugène de Mazenod, 1782 - 1837 - 1861) の手で定礎が行われて建設作業が始まりました。

 当初の計画で内陣の地下に造られる予定であった地下聖堂は、聖堂全体の地下に広がるプランに変更されましたが、岩盤が固いために工事は捗りませんでした。このため費用も不足して、宝くじを発売したり、ド・マズノ師が私財を担保に資金を調達したりしました。関係者のこのような努力にかかわらず、1859年から 1861年までの2年間は工事が中断しましたが、1861年5月21日にド・マズノ師が亡くなり、同年8月末に新司教クリュイス師 (Mgr. Patrice François Marie Cruice, 1815 - 1861 - 1865) が着任すると、工事は再開され、1864年6月4日、無事に祝別式を迎えることができました。1866年には鐘楼が完成して大鐘が設置されました。


 1867年、鐘楼の上に聖母像の台座が造られました。3人の彫刻家が聖母像のプランを提出し、選考の結果、ルケーヌ (Eugene-Louis Lequesne, 1815 - 1887) のデザインが採用され、銅に金めっきを掛けることとなりました。像は4つの部分に分割されてパリのクリストフル社 (Christofle & Cie) で製作され、ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドに運ばれて搭上に据え付けられ、1870年9月24日に祝別式が行われました。像はその後4回(1897年、1936年、1963年、1989年)にわたって、金を新しく被せられています。

近代思想が力を得て、カトリック教会が危機感を募らせた19世紀後半は、あたかも近代思想に立ち向かうかのような聖母子の巨像が、フランス各地に建立された時代でした。ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドの祝別に先立つ 1860年には、ル・ピュイ=アン=ヴレ(オーヴェルニュ)の聖母像ノートル=ダム・ド・フランス(高さ16メートル)が祝別されています。これらの聖母像はヨハネの黙示録 12章において竜と戦う力強い聖母マリアの姿を表しています。


 1874年に主任建築家エスペランデュが亡くなると、この年からマルセイユ司教座聖堂の建設工事を監督していた建築家レヴォワル (Henri Antoine Révoil, 1822 - 1900) が、モザイク壁画をはじめとするノートル=ダム・ド・ラ・ガルドの内装の仕事を引き継ぎました。主祭壇の建設と内陣のモザイク画は 1882年に完成しましたが、1884年6月5日に火災が起こり、主祭壇、モザイク画とも被害を受けました。モザイク画は修復されましたが、主祭壇はレヴォワルのプランで造り直され、1886年4月26日、ラヴィジュリ枢機卿 (Mgr. Charles Martial Allemand Lavigerie, 1825 - 1892) の手で祝別されました。その後細部をととのえて、1897年に工事はすべて終わりました。


【聖堂の外観】

 バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドは発達したクリプト(地下聖堂)と地上の聖堂の二層にわかれており、クリプトはロマネスク様式、地上の聖堂はネオ・ビザンティン色が強い様式となっています。

 バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドのもうひとつの特徴は、多種類の色の石材を効果的に組み合わせて使用し、美しい視覚的効果を実現していることです。白い石材は石灰岩で、ワイン産地としても有名なエクス=アン=プロヴァンス近郊の町カリサーヌ (Calissane) で切り出されたものです。これと組み合わせて使われている緑色がかった石材は、トスカナ産のゴルファリーナ (Golfarina) という石です。また聖堂内部には多色のモザイクと並んで、様々な色の大理石が用いられています。


・南側正面

 バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドは通常のロマネスク建築とは異なり、身廊が南北、翼廊が東西の軸に沿っています。聖堂入り口にあるブロンズ製の扉は、レヴォワルがデザインしたものです。中央入り口のタンパンは、フェーヴル=デュフェ (Louis Stanislas Faivre-Duffer, 1818 - 1897) の原画に基づく聖母被昇天のモザイク画で飾られています。


 鐘楼


 聖堂の南側正面には、巨大な四角柱の形をした高さ 41メートルの鐘楼が建っています。鐘楼最下部の門の上には、同じデザインの二層が重ねられ、それぞれの層には5つのアーチが連続する装飾アーケードが設けられています。5つのうち中央のアーチは開口部となっており、小さなバルコニーが付いています。この二層の上に、大鐘を設置した階があり、錣(しころ)板の外側に赤い花崗岩の石柱2本を用いたアーケードをそれぞれの面に設けています。その上は石造りの手すりがある四角いテラスとなっており、それぞれの面には手すりの中央にマルセイユの紋章が掲げられ、またテラスの四隅にはラッパを吹き鳴らす天使の像が据えられています。テラスの上には16本の花崗岩柱に取り巻かれた高さ 12.5メートルの円柱があり、これが高さ 11.2メートルの巨大な聖母子像「ノートル=ダム・ド・ラ・ガルド」(Notre-Dame de la Garde 守護の聖母)の基台となっています。


・側面ファサード

 身廊の外壁は三連アーチの大きなアーケードとなっており、各アーチの下に開けられた縦長の窓から、身廊に沿って両脇に3つずつ設けられた礼拝堂の採光を図っています。アーチの迫石(せりいし)には、白と緑の石材が交互に使用されています。





・翼廊

 翼廊は東西の軸に沿っており、それぞれの端には薔薇窓ひとつと、その下に縦長の窓がふたつあります。交差部には直径 9メートルのドームを有する八角形の採光塔が設けられています。


【地下聖堂】

 採光も良く、さまざまな色の大理石とモザイクで装飾された地上の壮麗な聖堂に比べて、地下聖堂は暗く、天井は低く、装飾らしい装飾もありません。鐘楼下の前室には、1853年にバジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドの定礎を行ったマルセイユ司教ド・マズノ師と、当時の教皇ピウス10世 (Pius X, 1792 - 1846 - 1878) の像(註5)があります。また地下聖堂の入り口と、その両側には地上の聖堂への階段が設けられています。

 地下聖堂の様式は完全なロマネスクで、地上の聖堂の身廊の地下にあり、地上の聖堂と同様に、礼拝堂が両脇に3つずつ設けられています。主祭壇はトスカナの石材ゴルファリーナでできており、「ブーケの聖母」が後ろに安置されています。6つの礼拝堂の祭壇は使徒聖アンドレ (Sancta Andreas, Ie siecle)、聖フィロメナ (Sancta Philomena, + c. 304)、聖アンリ (神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ2世 Heinrich II, c. 973 - 1024)、聖ルイ (フランス国王ルイ9世 Louis IX, 1214 - 1270)、ヴィテルボの聖ローザ (Santa Rosa da Viterbo, 1234 - 1252)、聖ブノワ=ジョゼフ・ラブレ (St. Benoit-Joseph Labre, 1748 - 1783) に捧げられています。


【地上の聖堂】




 地上の聖堂は白と赤の石材、及び多色のモザイクによって美しく彩られています。白い石材はカッラーラ産の白大理石、赤い石材はブリニョル (Brignol, le Var) 近郊の赤大理石です。赤大理石は、バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドの主任建築家エスペランデュの意向を受けて、マルセイユの大理石業者ジュール・カンティーニ (Jules Cantini, 1826 - 1916) が新しく見つけた岩脈から採石されたもので、瑪瑙(めのう)のように美しい黄色と白の斑紋が入っています。

 モザイクはヴェネツィアのガラスでできたテッセラ(角片)を用いて 1886年から 1892年にかけて製作されたもので、その面積は天井と仕切り壁を合わせて約 1200平方メートルに及びます。1平方メートルの画面に 1万個近いテッセラが使われていますので、天井と仕切り壁の全体で約 1200万個のテッセラが使用されていることになります。床にも 380平方メートルに及ぶモザイクで幾何学文が描き出されています。


・身廊

 モザイクに飾られて東方的な雰囲気を感じさせる身廊は、それぞれモザイクで埋め尽くした三つの穹窿に蓋われています。モザイクの図柄は三つの穹窿に共通で、金の地に小さな花を散らし、中心に薔薇窓のような花の意匠、その周囲に八羽の白鳩をあしらいます。金の地にちりばめられた小さな花の色のみが穹窿ごとに異なり、フランスのトリコロール(白、青、赤)となっています。


 青い花の穹窿とペンデンティヴ


 それぞれの穹窿を支えるペンデンティヴ(穹隅 きゅうぐう)には旧約聖書に取材したテーマ、及び初代教会時代のカタコンベ壁画を思わせるキリストや聖母の象徴が、モザイク作品となっています。白い花の穹窿のペンデンティヴには「ノアの箱舟」「契約の虹」「ヤコブの梯子」「燃える灌木」、青い花の穹窿のペンデンティヴには「十戒の石板」「花が咲いたアロンの杖」「カンデラブラ(七枝の燭台)」「神殿の香炉」、赤い花の穹窿のペンデンティヴには「ぶどうが実った木」「茨のなかの百合」オリーヴの枝」「椰子の木」が表されています。

 顔料を使用した天井画とは違って、モザイクは金そのものの輝きを完全に再現し、またそれぞれの色が混ざり合って暗くなることもなく、鮮やかできらびやかな色彩を永遠に保ち、まさに褪せることがない天上の輝きを表しています。聖堂建築の伝統において神の座である穹窿を飾る芸術として、モザイク画は何にもましてふさわしい技法といえます。


・身廊・翼廊交差部の大穹窿

 交差部の大穹窿は天上の楽園を表します。穹窿の中心には聖母を表す文字 M があり、これを花輪が囲みます。花輪は白い衣を着た4人の天使によって支えられています。天使の足下には、穹窿を囲む城壁と、パルメット文のように図案化された楽園の植物が表現されています。

 この大穹窿を支える四つのペンテンティヴは、モザイクで花を描くとともに、四人の福音史家を人間、獅子、牛、鷲によって立体的に表します。


 交差部の大穹窿とペンデンティヴ


・内陣

 エスペランデュの設計による主祭壇は 1884年の火災で損傷したので、レヴォワルの設計に基づき、ジュール・カンティーニの手で、白大理石を使って造り直されました。祭壇の前面は5本柱のアーケードで飾られています。柱は表面に金を施したブロンズ製で、ラピス・ラズリの基部から立ち上がっています。聖体容器は銀の表面に金を施したヴェルメイユ製で、カリス(聖杯)から命の水を飲む鳩をモザイクで表した2枚のパネルと、2本の柱の間に置かれています。

 主祭壇の後ろには赤大理石の柱が立っています。柱頭は金細工で、その上に銀の聖母子像が安置されています。この聖母子は革命時に融かされた像に代わって、マルセイユの銀細工職人シャニュエルが5年がかりで製作したもので、1837年7月2日に祝別されました。

 後陣の半円蓋に施されたモザイクは、金色の地に植物と32羽の鳥で楽園を表しています。半円蓋の中心にあるメダイヨンには波高い海に浮かぶ船が描かれていますが、その帆にはマリアのモノグラムが付いており、また空に輝く星にも海の星マリアのMを読み取ることができます。

 半円蓋の下には9つのメダイヨンが並び、それぞれの図柄は聖母への祈りを表しています。





・身廊両側の礼拝堂

 バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドの身廊は南北方向に延びており、身廊の東側と西側に3つずつ、計6つの礼拝堂が並んでいます。東側の3つの礼拝堂は聖ロック聖マリ・マドレーヌ(マグダラのマリア)、聖ペトロに、西側の3つの礼拝堂は聖カルロ・ボッローメオ、聖ラザロ、聖ヨセフに捧げられています。

 ペスト禍に見舞われたマルセイユにとって、聖ロックと聖カルロ・ボッロメーオは最も大切な守護聖人といえますし、小舟で聖地を脱出してカマルグに着いたと伝えられる聖マリ・マドレーヌと聖ラザロは、プロヴァンス地方で最も親しまれている聖人です。

 各礼拝堂の祭壇は白大理石でできており、同一のデザインですが、祭壇の前面にはそれぞれの聖人に因む図像が浮き彫りにされています。たとえば聖ヨセフの祭壇には花が咲いた枯れ枝、聖ペトロの祭壇には繋釈権を象徴する2本の鍵、聖マリ・マドレーヌの祭壇にはナルドの香油の壺が表されています。これら礼拝堂の祭壇は、主祭壇と同様に、レヴォワルの設計に基づき、ジュール・カンティーニによって制作されたものです。



註1 イタリア戦争は、従来から確執のあったパプスブルク家とヴァロワ家の間で、イタリアの支配権をめぐって行われた戦争です。

 ハプスブルク家のもともとの本拠はドイツですが、カール5世 (Karl V, 1500 - 1558) は 1516年にスペイン王となり、さらに 1519年には神聖ローマ皇帝に即位しました。ハプスブルク家の支配地に挟まれる形となったヴァロワ朝フランスは、その脅威から逃れるために、イタリアの支配権を手に入れようとして同家と争い、1521年から 1544年にかけて、4次にわたるイタリア戦争が戦われました。

 マルセイユ攻囲は第一次イタリア戦争 (1521 - 1526) の際の出来事で、1524年8月から9月にかけて行われました。マルセイユを攻めたのは、ハプスブルク側に寝返ったブルボン公シャルル3世 (Charles III de Bourbon, 1490 - 1527) と、イタリア人傭兵隊長フェルナンド・ダヴァロス (Fernando Francesco d'Avalos, 1490 - 1525) に率いられた軍でした。9月に入ってフランスの援軍が到着したことで攻囲が解かれ、マルセイユは辛くも陥落を免れましたが、この戦いによってマルセイユの弱点が明らかになりました。


註2 シャトー・ディフは強い海流のせいで脱出が困難であるため、1540年以降、牢獄としても機能しました。サド侯爵 (Donatien Alphonse Francois, marquis de Sade, 1740 - 1814) やフランス革命時の国民議会のミラボー (Honore Gabriel Riqueti, marquis de Mirabeau, 1749 - 1791) が収監されていたのもシャトー・ディフですし、アレクサンドル・デュマ・ペールの長編小説「モンテ・クリスト伯」(Le Comte de Monte-Cristo, 1844) の主人公ダンテスが投獄されていた場所としても知られています。


註3 1720年のペスト流行では、マルセイユ市民 75,000人のうち、実に半数以上の 38,000人が犠牲となりました。聖ロックがマルセイユに現れて病人の治療に当たったという伝承があり、これをテーマにしたダヴィドの作品(下)がマルセイユ美術館に収蔵されています。

Jacques-Louis David, Saint Roch intercédant la Vierge pour la guérison des pestiférés, 1780, Huile sur bois, 260 x 195 cm, Musée des Beaux-Arts, Marseille




註4 エスカラマーニュ氏は革命で破壊されたマルセイユ市中の修道院にかつて安置されていた18世紀の聖母像を競売で競り落とし、ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドに寄贈しました。この聖母が手にしていた笏は花束に取り替えられ、「ブーケ(花束)の聖母」(la Vierge au bouquet) と呼ばれるようになりました。

 1837年からは、現在ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドにある銀の聖母像が安置されることとなったため、「ブーケの聖母」はマルセイユの東にあるメウーヌ=レ=モントリュー (Meounes-les-Montrieux, le Var) のシャルトルーズ修道院 (la chartreuse de Montrieux) に移されました。「ブーケの聖母」は 1979年にノートル=ダム・ド・ラ・ガルドに戻され、現在は地下聖堂の祭壇に安置されています。


註5 これら2体の彫刻はラミュ (Joseph Marius Ramus, 1805 - 1888) の作品です。ラミュはコルト (Jean-Pierre Cortot, 1787 - 1843) の弟子で、ユソン (Honore Jean Aristide Husson, 1803 - 1864)、ビオン (Louis-Eugene Bion, 1807 - 1860) とともに 1830年のローマ賞を獲得しています。

 ラミュの師コルトは、バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ガルドに安置されている銀の聖母像をデザインした彫刻家です。




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