ラ・バジリカ・ディ・サンタ・マリア・デリ・アンジェリ 天使たちの聖マリアのバシリカ
la Basilica di Santa Maria degli Angeli, Assisi
(上) アッシジ、ラ・バジリカ・ディ・サンタ・マリア・デリ・アンジェリ 天使たちの聖マリアのバシリカ la Basilica di Santa
Maria degli Angeli, Assisi
ラ・バジリカ・ディ・サンタ・マリア・デリ・アンジェリ(la Basilica di Santa Maria degli Angeli 以下、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂 註1)はアッシジ(Assisi ウンブリア州アッシジ県)の中心からおよそ四キロメートル離れたフラツィオーネ(伊
una frazione 分離集落)、サンタ・マリア・デリ・アンジェリにある巨大な聖堂で、教皇ピウス五世(Pius V, 1504 - 66
- 72)の命により、ポルツィウンコラの保存、並びに巡礼者の収容を目的に建設されました。聖堂の平面プランはラテン十字型で、幅六十五メートル、奥行百二十六メートルの三廊式です。ポルツィウンコラは身廊と翼廊の交叉部に建っています。
サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂は寄付金を財源として建てられたため、工事の進行は遅く、完成には実に百十五年を要しました。キリスト教の聖堂としては世界第七位の大きさを誇ります。サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂は、1909年4月11日、教皇ピウス十世によって総主教バシリカ(教皇バシリカ)に格上げされました。
【ポルツィウンコラを取り巻く建物群の発達と、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂の建設】
聖フランチェスコ(San Francesco d'Assisi, 1182 - 1226)はアッシジのサン・ダミアーノ教会で祈っていたとき、「わたしの教会を建て直しなさい」というお告げを磔刑のキリスト像から受けました。これを聖堂の修復という意味に解したフランチェスコは、当時廃墟と化していたサン・ダミアーノ教会を皮切りに修復作業を開始しました。ポルツィウンコラ(伊
la Porziuncola)は元々ベネディクト会が所有していた小さな礼拝堂で、十二世紀には荒れ果てていましたが、フランチェスコが修復した三番目の礼拝堂となりました。
聖人の没後、ポルツィウンコラ周辺には小さき兄弟たち(フランチェスコの弟子たち)が数棟の隠修行小屋を建てていましたが、免償を求めてポルツィウンコラを訪れる巡礼者が増えたので、ピウス五世は隠修小屋を取り壊して大きな聖堂を建てるように命じました(註2)。設計と建設を担当した建築家はガレアッツォ・アレッシ(Galeazzo Alessi, 1512 - 1572)及びヤコポ・バロッツィ(Jacopo Barozzi da Vignola, 1507 - 1573)で、マニエリスム様式によります。聖堂の定礎は 1569年3月25日、交差部の円蓋が完成したのは 1667年、聖堂本体の落成は 1679年、鐘楼(註3)が完成したのは 1684年でした。
(上) サンタ・マリア・デリ・アンジェリの平面プラン及び縦断図。ペルージャ大学のフィリッポ・ウベルティーニ博士(Dr. Filippo Ubertini)による。
1832年3月15日の大地震で、身廊、側廊の一部、内陣が崩落し、円蓋に大きな亀裂が入りました。修復と再建はルイジ・ポレッティ(Luigi Poletti, 1792 - 1869)の設計に基づいて 1836年に始まり、1840年に完了しました。ルイジ・ポレッティは新古典様式を得意とする建築家で、再建後の西側正面も新古典様式となりましたが、1824年から 1930年にかけてチェーザレ・バッツァーニ(Cesare Bazzani, 1873 - 1939)の設計に基づく再修復が行なわれ、元のマニエリスム様式が復元されました。
(上) マドンナ・デリ・アンジェリ聖堂西側正面最上部の聖母像 フェルディナンド・マリネッリで撮影された写真。
西側正面最上部にはマドンナ・デリ・アンジェリ像が立っています。この像はテルニ(Terni ウンブリア州テルニ県)の彫刻家グリエルモ・コロザンティ(Guglielmo
Colasanti, 1889 - 1944)の作品で、フィレンツェの工房フェルディナンド・マリネッリ(La Fonderia Artistica
Ferdinando Marinelli)がブロンズで鋳造し、金めっきを施しています(註4)。像が据え付けられたのは 1930年です。
マドンナ・デリ・アンジェリ聖堂は 1997年のウンブリア・マルケ地震で再度損壊し、修復工事が行われました(註5)。
【聖堂内の礼拝堂など】
マドンナ・デリ・アンジェリ聖堂が建設される際、ポルツィウンコラ周辺の隠修小屋と食堂はピウス五世の命により取り壊されましたが、聖フランチェスコが身を投げかけた茨の茂み、及び聖フランチェスコが被造物の歌を作り臨終の場ともなった小屋は残されました。現在、茨の茂みはバシリカ後方の薔薇園(伊 il roseto)、臨終の小屋はバシリカ内のトランジート礼拝堂となっています。
伝説によると、或る夜聖フランチェスコが罪の意識と悔恨に苛まれ、裸になって茨の茂みに身を投げましたが、フランチェスコの体が触れた途端、茨の棘は全て消え失せました。バシリカの脇に咲く薔薇には、今でも棘がありません。
トランジート礼拝堂(伊 la Capella del Transito)には聖フランチェスコが使っていた荒縄のベルトが安置されていますが、これはピウス九世から修道会に贈られた聖遺物です。聖フランチェスコの死と葬儀を描いた二点のフレスコ画は、ペルージャ生まれの画家ドメニコ・ブルスキ(Domenico
Bruschi, 1840 -1910)による 1886年の作品です。
(上) Tiberio d'Assisi, Proclamazione dell'Indulgenza della Porziuncola, o Perdon d'Assisi, la Basilica di Santa Maria degli Angeli, Assisi
薔薇園の礼拝堂(伊 la cappella delle rose)は元々聖フランチェスコの隠修小屋でしたが、聖ボナヴェントゥラ(St. Bonaventura
de Bagnoregio, O. F. M., c. 1217 - 1274)の遺志に基づき、聖堂内の礼拝堂とされました。礼拝堂は二室に区切られ、ティベリオ・ダッシジ(Tiberio
Ranieri di Diotallevi di San Francesco, c. 1470 - 1524)のフレスコ画連作で飾られています。また礼拝堂内にはグロット様の窪みがあり、祈る聖フランチェスコ像、及び教皇がポルツィウンコラの免償を宣言した際に腰かけていた椅子の骨組みが安置されています。
聖堂南側の外壁沿いには巡礼者用の泉があり、二十六の取水口が設けられています。この設備が設けられたのは 1610年で、メディチ家の寄進によります。
(上) Giunta Pisano, Crocifisso di Santa Maria degli Angeli, 1230 - 1240, tempera e oro su tavola, Museo di Santa Maria degli Angeli,
Assisi
マドンナ・デリ・アンジェリ聖堂の宝物庫には、ジュンタ・ピザーノ(Giunta Pisano, c. 1180 - c. 1250)による有名なクルシフィクスが収蔵されています。ジュンタ・ピザーノはピザのジュンタという意味で、ジュンタ・ダ・ピーザ(Giunta da Pisa)とも呼ばれ、多数の作品に署名が見られる最初のイタリア人画家として知られます。
ジュンタ・ピザーノは主にクルシフィクスを制作しました。マドンナ・デリ・アンジェリのクルシフィクスはテンペラ板絵に金箔を施し、高さは 174センチメートルセンチメートルです。横木の末端に聖母と使徒ヨハネを描き、クルシフィクスの基部には次の言葉がラテン語で書かれています。
(Iu)nta Pisanus (Cap)itini me f(ecit) ジュンタ・ピザーノ・カピティーニ、我を描けり。
このクルシフィクスはカトリック文化圏におけるクリストゥス・パティエーンス(羅 CHRISTUS PATHIENS 死せるキリスト)の類型を確立した作品としてよく知られます。
【その他】
「イ・フィオレッティ・ディ・サン・フランチェスコ」(伊 "I fioretti di san Francesco" 聖フランチェスコの小さき花)は十四世紀末まで遡ることが可能な聖フランチェスコの聖人伝です。バシリカが建つ場所は聖フランチェスコの当時からマドンナ・デリ・アンジェリと呼ばれており、「イ・フィオレッティ」に収録されたいくつかの物語の舞台となっています。とりわけ注目されるのは十八章の記述で、聖フランチェスコがフランシスコ会総会をマドンナ・デリ・アンジェリの野原で開き、五千人以上の小さき兄弟たち(修道会員たち)、聖職者たち、俗人たちを前に説教を行なったと記録されます。この総会は蓆(むしろ)の総会と呼ばれ、開催時期は
1217年または 1219年頃と考えられています。
「イ・フィオレッティ」十八章によると、この総会にはグスマンの聖ドミニコも居合わせていました。聖ドミニコはブルゴーニュからローマに向かう途中でしたが、フランチェスコに会うために七人の弟子を連れて参加したのでした。総会の席上、聖フランチェスコは飲食物にいっさい気を遣わず、ただ神を讃えよと説教しました。これを聞いた聖ドミニコは、五千人もの人々が飲み食いせずにどうやって生活できるのかといぶかりましたが、神の計らいによって近在の土地から次々と食べ物が運び込まれるのを見て聖フランチェスコの前に跪き、清貧の誓いを立てたと伝えられます。
さらに「イ・フィオレッティ」十八章によると、集まった人々の中には、苦行帯や鉄の腕輪を身に着けている者が大勢ありました。当時は苦行が盛んに行われましたが、過剰な苦行が却って祈りの妨げになるばかりか、苦行のため死ぬ者さえ出ていることを知らされると、聖フランチェスコは苦行帯や鉄の腕輪を外すことを人々に命じました。その場で差し出された苦行帯はおよそ五百本、鉄の腕輪はそれ以上の数になりました。