バロックの画家ピエール・ミニャールの作品、「葡萄の聖母」による浮き彫り彫刻。第二帝政期(1852 - 1870年)頃のフランスで制作された作品です。
油絵などの原作に基づいて石膏彫刻を制作する場合、原作に描かれていないものが付加される場合もあり、逆に原作に描かれたものが省略される場合もあります。付加や省略が行われるのは、原作と石膏彫刻の機能が異なるからです。
ミニャールによる原作は、キリスト教的テーマによる場合であっても、信心具としての性格は本品よりも希薄であり、純粋な美術品に近い作品として制作されています。しかるに本品のような石膏彫刻は、美術品ではあっても、信仰心を高めるという明確な目的を持っており、信心具としての役割を兼ねています。それゆえ本品のような石膏彫刻においては、信心具としての役割を強めるために、原作に無い宗教的象徴が加えられたり、原作において装飾的役割しか果たしていない要素が省略されたりするのです。原作において装飾的役割しか果たしていない要素が省略されるということは、逆にいえば、省略されなかった要素は宗教的意味を担っているということでもあります。
本品の彫刻をミニャールの油彩画と比較すると、原画の左手前に描かれたテーブルと果物籠、及び右奥の背景が省略される一方で、聖母が腰掛ける椅子の背と、聖母子が手にする葡萄の房は省略されていません。
椅子の背は「聖母が椅子に座り、イエスが聖母の膝に座る」という重層的な座の構図を明確にする役割を果たしています。ここで重要なのは、聖母が担うイエスの座あるいはセーデース・サピエンティアエ(羅 SEDES SAPIENTIAE 上智の座)の役割です。本品において聖母の膝は王であるキリストの玉座として表されています。玉座である聖母はイエスを救い主、王として世に示し、救いに至る知恵(サピエンティア)を人々に教えています。イエスを膝に乗せる聖母は母性の表現でもあり、受胎告知を受け容れて救い主を産んだ恩寵の器マリアが、救済史において果たした役割の重要性を可視化しています。イエスを聖母のヴェールの下に入れて聖母子の一体性を強調した描写も、救世の働きにおけるイエスとマリアの調和を表しています。
椅子の背を飾る擬宝珠(ぎぼし)状のフィニアルは、ナルドの香油の壺、あるいは乳香(ミルラ)の容器を思い起こさせます。ナルドの香油や乳香はイエスの受難を象徴します。また椅子の背の側面に張られたベルベットの紫、あるいはカーミン赤も、救世主受難の象徴です。石膏彫刻に彩色は施されていませんが、原画における紫あるいはカーミン赤の部分は省略せずに彫刻されており、原画を知る人の意識にはこの部分も色付いて映るはずです。
本品において最も豊かな象徴性を担うのは葡萄です。葡萄はいうまでもなく救世主の受難とエウカリスチアを象徴しますが、それだけではなく、救世主の到来、神の国の到来をも象徴します。
本品において、葡萄は聖母の右手に乗せられており、イエスがこれを祝福するかのように右手を添えています。「ヨハネによる福音書」 15章 1 -
10節のたとえ話で、イエスはまことの葡萄の木、キリスト者は葡萄の枝と呼ばれています。そうであるならば葡萄の実はキリスト者がイエスに繋がることによって得る実りでしょう。聖母の右手に庇護され、イエスの右手に祝福される葡萄は、キリスト者の善き行いと活きた信仰生活、及び救いを表していると考えることができます。
(上) Pierre Mignard, "la Vierge aux raisin", 1640's, 121 x 94 cm, le musée du Louvre, Paris
本品の原作である聖母子像「葡萄の聖母」("la Vierge aux raisin" ou "la Vierge à la grappe")の作者、ピエール・ミニャール(Pierre Mignard, 1612 - 1695)は、17世紀フランスの画家です。「葡萄の聖母」はミニャールがごく若い頃に描いた油彩画ですが、美しい作品が多いミニャールの聖母像のなかでも、おそらく最もよく知られた名作です。「葡萄の聖母」はルーヴル美術館シュリー翼の第35室にありますが、現在は公開されていません。
(上) il Sassoferrato, "la Vierge adorant l'Enfant dormant", 92 x 75 cm, huile sur toile, el Museo Soumaya, la ville de Mexico
ミニャールが描く聖母は、同時代のイタリア人画家イル・サッソフェラート (il Sassoferrato, Giovanni Battista
Salvi, 1609 - 1685) の作品群とよく比較されます。どちらの画家の作品も、バロック美術の精髄ともいうべき聖母像です。
本品は百数十年前のフランスで制作された真正のアンティーク美術品ですが、古い年代にもかかわらず、特筆すべき問題は何も無く、非常に良好な保存状態です。彫刻本体は曲面ガラスに守られて、破損も磨滅もいっさい無く、制作当初の完全な状態を保っています。ガラスは19世紀のオリジナルで、破損、ひび、疵(きず)等の問題はありません。