マンデュリオン、スーダーリウム、あるいはヴェロニカの布(きぬ)
Μανδύλιον, SŪDĀRIUM, aut VERONĪCÆ VĒLUM




(上) Bernardo Strozzi, "La Verónica", 1620 - 1625, óleo su lienzo, 168 x 118 cm, el Museo del Prado


 伝承によると、イエスが十字架を担いでゴルゴタへの道を辿っているとき、聖女ヴェロニカが布を差し出しました。イエスがその布で汗を拭いたところ、イエスの聖顔(ラ・サント・ファス la Sainte Face)が奇蹟によって布に転写されたといわれています。この聖遺物はギリシア語でマンデュリオンまたはマンディリオン(希 Μανδύλιον 布片、手拭き布)、ラテン語でスーダーリウム(羅 SUDARIUM 汗拭き、ハンカチ)またはウェロニーカエ・ウェールム(羅 VERONICÆ VELUM ヴェロニカの布)と呼ばれ、ヴァティカンのサン・ピエトロのバシリカをはじめ、数か所の聖堂や修道院に伝えられています。

 なお聖女ヴェロニカの名前について、ラテン語における母音の長短を正しく表記するとヴェロニーカまたはウェロニーカですが、本稿では我が国の慣例に従いヴェロニカと表記します。ラテン語は高低アクセントで、ヴェロニーカ、ウェロニーカの強勢はパエヌルティマ(ニー)にあります。


【伝承の成立過程】



(上) 十字架の道行きのシャプレ 第六留のメダイユ ヴェロニカがイエスに布を差し出す様子が表されています。


 ヴェロニカの布(きぬ)の物語が現在の形で文書に初出するのは中世のことですが、この話の源流と考えられる古代資料に新約外典「ピラト行伝」 があり(註1)、同書第七章はベレニーケーという女性の証言になっています。ベレニーケーは十二年のあいだ婦人科領域の出血が止まりませんでしたが、イエスの衣の縁に触れたとたんに快癒しました。この部分は言うまでもなく共観福音書の記事(マタイ 9:20 - 22、マルコ 5:25 - 34、ルカ 8:43 - 47)に拠りますが、ベレニーケーという女の名は正典福音書に見られません。「ピラト行伝」にはギリシア語による十写本に加えてラテン語、コプト語、シリア語、アルメニア語の訳があります。ベレニーケー(Βερενίκη)は古代マケドニア語から古典ギリシア語に借用された名で(註2)、古典ギリシア語アッティカ方言のペレニーケー/フェレニーケー(希 Φερενίκη 勝利を運ぶ女)の二重語です。ベレニーケー、ペレニーケー/フェレニーケーをラテン語に音訳すると、ウェロニーカ/ヴェロニーカ(VERONICA)になります(註3)。

 共観福音書に伝えられ、ラテン語訳「ピラト行伝」でヴェロニカと呼ばれた女の逸話は十一世紀になるとさらに脚色されて、キリストの顔を写した布がキリスト自身からヴェロニカに与えられ、ヴェロニカはこの布を後にティベリウス帝に見せたとの細部が加わります。十一世紀に肉付けされたヴェロニカの物語は、ロジェ・ダルジャントゥイユ(Roger d'Argenteuil)が十三世紀に編んだ「フランス語聖書」La Bible en françois において、ヴェロニカがイエスに差し出した布にイエスの顔が転写されたとの奇跡譚に変化しました。布に浮かび出たイエスの顔は茨の冠をかぶり、血にまみれて苦しげな表情であったとされました。この時以来ヴェロニカの布はアルマ・クリスティーに加わり、十字架の道行きにもこの時の様子が付け加えられました。エルサレムのウィア・ドローローサ(羅 VIA DOLOROSA 悲しみの道)には聖女ヴェロニカの家であったと伝えられる小さな礼拝堂があり、聖顔礼拝堂と名付けられています。



【ヴァティカンにある聖遺物「ヴェロニカの布」】



(上) ヴァティカン、サン・ピエトロ聖堂に安置される聖遺物、ヴェロニカの布を再現した版画。レオン・パパン・デュポンの自宅にも、これと同じ版画がありました。版画は細部まで分かりやすいですが、聖遺物の実物は黒ずんでいて、目鼻立ちの判別は極めて困難です。


 ヴェロニカの布(きぬ)とされる聖遺物は少なくとも十四世紀以来ローマで公開され崇敬を受けていますが、この聖遺物の由来ははっきりと分かっていません。

 現在ヴァティカンにあるルネサンス様式のサン・ピエトロ聖堂は十六世紀から十七世紀にかけて建て替えられ、上空から見るとラテン十字を模っていますが、初代のサン・ピエトロ聖堂は長方形プランによるバシリカ様式でした。ヨハネス七世は 705年から 708年までローマ司教(教皇)を務めましたが、このときサン・ピエトロ聖堂内にヴェロニカの名を関する礼拝堂が造られています。ヴェロニカ礼拝堂の存在は聖遺物が存在した直接的証拠ではありませんが、聖遺物「ヴェロニカの布」の管理者を指定した 1011年の文書がありますので、1011年の時点ですでに存在していたことが分かります。

 ヴェロニカの布そのものに関しては、1199年にローマを別々に訪れた二人の巡礼が、それぞれこの聖遺物に言及しています。1207年には教皇インノケンティウス三世によってサン・ピエトロ聖堂から聖霊病院(L'Ospedale di Santo Spirito in Sassia)までヴェロニカの布の行列が行われ、教皇はこの聖遺物に祈る人々に免償を認めました。ヴェロニカの布の行列は毎年の行事となり、とりわけ 1300年以降設けられるようになった聖年には、ヴェロニカの布が巡礼者に対して常時公開されるようになりました。その後教皇ウルバヌス八世はヴェロニカの布の複製を厳禁し、聖遺物「ヴェロニカの布」はベルニーニが造った聖遺物庫に納められました。

 サン・ピエトロ聖堂に安置されるヴェロニカの布は、イタリアや東方教会のイコンによくあるように、顔と髪、ひげの輪郭の外側がロシア語でリーザ(риза)、ウクライナ語でシャーチ(шати)と呼ばれる金色の枠に隠されて、濃い色の布だけが見えています。この聖遺物は十七世紀以来、御受難第一の主日(四旬節第五主日)に聖遺物庫から取り出され、聖堂内を行列で運ばれて、聖ヴェロニカの大理石像の上にあるバルコニーから巡礼者たちに示されます。しかしながらヴェロニカの布はひどく黒ずんでいますし、そのような距離を隔てて見ても、キリストの顔は全く判別できません。



【ヴァティカンの聖顔に類似する各地の聖遺物】

 ヴァティカンに安置される聖顔は、髯と左右の髪において輪郭が下方に突出し、輪郭に沿って切り抜かれた金色のリーザ(シャーチ)に保護されています。これとよく似た聖画像は各地にあり、聖遺物「ヴェロニカの布」として崇敬を受けています。ここでは最もよく知られる例を挙げます。


・ホーフブルク宮が収蔵するヴァティカンの聖遺物の模写



(上) ホーフブルク宮にあるヴェロニカの布 Schweißtuch der Veronika in der Hofburg


 ホーフブルク宮(独 die Hofburg)は十三世紀から 1918年までオーストリア帝室(ハプスブルク家)が本拠とした宮殿であり、ウィーン中心部の広大な敷地を占めています。ホーフブルク宮スイス翼(独 der Schweizertrakt)の宗教・世俗宝物館(独 die Geistliche und die Weltliche Schatzkammer)には、ヴァティカンが収蔵するヴェロニカの布の模写があります。ホーフブルク宮の模写はキリストの目鼻立ちが判明でなく、手本となった聖遺物の劣化した状態をよく再現しています。

 1527年、神聖ローマ皇帝カール五世の軍は教皇領ローマに侵攻して殺戮と略奪の限りを尽くし、イタリア・ルネサンスに幕を引きました。ヴァティカンの聖遺物もこの時に破壊されたとの説があります。しかしながらホーフブルク宮のヴェロニカは 1527年のローマ略奪よりも後に制作されたものであるゆえに、ヴァティカンのヴェロニカがローマ略奪を無事に切り抜けたことを示唆するものと考えられています。



・スペイン、アリカンテの聖顔修道院が収蔵するラ・サンタ・ファス・デ・アリカンテ

 地中海に面した港町アリカンテ(Alicante バレンシア州アリカンテ県)はスペイン、バレンシアの州であり、風光明媚な保養地です。アリカンテ郊外の聖顔修道院(西 el Monasterio de la Santa Faz)には、ラ・サンタ・ファス・デ・アリカンテ(西 La Santa Faz de Alicante アリカンテの聖顔)と呼ばれる聖遺物を安置しています。アリカンテの聖顔はヴァティカンの聖顔と同様の輪郭を有し、同様のリーザに保護されていますが、キリストの目鼻立ちが肉眼でも充分に判別可能である点、キリストが両眼を見開いている点、キリストの右眼から頬に流れ落ちた一滴の涙が大きく描かれている点が異なります。




(上) アリカンテの聖顔 La Santa Faz de Alicante


 コンスタンティノープルはメフメト二世に攻撃され、1453年に陥落しました。コンスタンティノープルの帝室は聖遺物のコレクションを誇りましたが、アリカンテの聖顔はコンスタンティノープルと東ローマが滅びた 1453年に教皇ニコラス五世(Nicholas V, 1397 - 1447 - 1455)の許にもたらされ、次いでスペインに運ばれました。

 アリカンテの北側に、サン・フアン・デ・アリカンテ(San Juan de Alicante)という町があります。アリカンテの聖顔は、サン・フアン・デ・アリカンテの主任司祭ペドロ・メナ(Pedro Mena)によって、1489年にローマからもたらされました。伝承によると、ペドロ・メナ師はヴェロニカの布をローマから運ぶのに大きな櫃を使いました。師はヴェロニカの布を櫃の底近くに入れましたが、不思議なことに、荷物を途中で開けるたび、ヴェロニカの布は櫃の上のほうに移動していました。

 1489年は酷い旱魃の年でした。アリカンテにもたらされたヴェロニカの布は、同年3月17日、雨乞いの行列に持ち出されましたが、途中で急に重くなり、行列を進めることができなくなりました。そのとき聖顔の右目から一滴の涙が流れ、それとともに恵みの雨が降り始めました。聖顔修道院はヴェロニカの布が急に重くなった地点に建てられたと伝えられています。聖顔修道院はトマス・ア・ケンピスが所属したことで知られる聖アウグスチノ律修参事会(Canonissae Regularis S. Augustini)に属します。十五世紀のバロック建築で、2003年から 2006年にかけて大規模な修復が行われました。



・ハエン司教座聖堂が収蔵するエル・サント・ロストロ(ラ・ベロニカ)



(上) ハエン司教座聖堂のエル・サント・ロストロ(ラ・ベロニカ) El Santo Rostro o La Verónica de la Catedral de la Asunción de la Virgen, Jaén


 ハエン(Jaén アンダルシア州ハエン県)はオリーヴ栽培で知られるスペイン南部の町です。ハエンの司教座聖堂であるラ・アスンシオン(西 la Catedral de la Asunción de la Virgen 被昇天の聖母司教座聖堂)には、ハエンとクエンカの司教ニコラス・デ・ビエドマ(Nicolás de Biedma)が十四世紀にもたらしたとされるヴェロニカの布があり、エル・サント・ロストロ(西 el Santo Rostro 聖顔)またはラ・ベロニカ(西 la Verónica)と呼ばれています。この聖遺物は人の手による作品ではなく、聖女ベロニカ(ヴェロニカ)が救い主に差し出した布に聖顔が転写されたものであると信じられ、毎週金曜日に時間を限って公開されるほか、毎年の聖金曜日及び聖母被昇天の祝日にも公開されます。



・ジェノヴァのサン・ヴォルト・ディ・エデッサ



(上) サン・ヴォルト・ディ・エデッサ Santo Volto di Edessa, San Bartolomeo degli Armeni, Genova


 ジェノヴァのサン・パルトロメオ・デリ・アルメニ(伊 San Bartolomeo degli Armeni アルメニア・カトリック教会サン・バルトロメオ)には、サン・ヴォルト・ディ・エデッサ(伊 Santo Volto di Edessa エデッサの聖顔)と呼ばれる聖遺物が安置されています。サン・ヴォルト・ディ・エデッサは十四世紀にパレオロゴス朝ビザンチン帝国のヨハネス五世から、ジェノヴァ共和国のドージェ(統領)であるレオナルド・モンタルド(Leonardo Montaldo, 1319 – 1384)に贈られたと伝えられます。

 すぐ後に述べるサン・シルヴェストロの聖顔と同様に、この聖遺物はサン・ピエトロにあるヴェロニカの布の複製と思われ、布に描かれ木の板に貼り付けられています。ルリケールの枠は十四世紀のものですが、聖遺物自体は枠よりも古いと考えられます。この聖遺物はサン・ヴォルト・ディ・エデッサ(エデッサの聖顔)と呼ばれて後述のマンデュリオンと同一視される点も、サン・シルヴェストロの聖顔と共通しています。


・サン・シルヴェストロの聖顔



(上) サン・シルヴェストロの聖顔 エングレーヴィングによる十八世紀頃の複製


 サン・シルヴェストロ(伊 San Silvestro 聖シルヴェストロ)とはローマ司教シルウェスエル一世(Silvester I, 285 - 314 - 335)のことですが、聖遺物の名に含まれるサン・シルヴェストロは聖人の名を冠したローマ中心部の小バシリカ、サン・シルヴェストロ・イン・カピテ(伊 San Silvestro in Capite 羅 Sancti Silvestri in Capite)、及びこの聖堂に隣接して建てられた修道院を指しています。サン・シルヴェストロの聖顔はサン・ピエトロに安置されるヴェロニカの布の複製と考えられ、布に描かれ木の板に貼り付けられています。サン・シルヴェストロの聖顔はもともとサン・シルヴェストロ修道院に安置されていましたが、1870年にヴァティカンのマチルダ礼拝堂へ移されました。

 上の写真は聖顔がサン・シルヴェストロにあった当時のエングレーヴィングで、聖顔を囲む銘には、救い主イエス・キリスト御自身から得られ、目下ローマの聖シルヴェステル修道院に安置される似姿(羅 IMAGO IESU CHRISTI SALVATORIS AD IMITATIONEM EIUS QUAM MISIT AB CARO QUAE ROMAE HABETUR IN MONASTERIO SANCTI SILVESTRI)と彫られています。しかるに版画下部の説明書きには、ローマのサン・シルヴェストロ聖堂に現在安置される絵から写された救い主イエス・キリストのまことの御姿(独 Wahre Abbildung JESU CHRISTI des Erlösers, Abkopiert von dem Gemälde, welches sich derzeit in Rom in der Kirche des heiligen Sylvesters befindet.)と記されています。すなわちラテン語の銘を読むと、サン・シルヴェストロの聖顔の聖顔はキリストの顔から超自然的に転写されたように思えますが、ドイツ語の銘を読むと、人の手による模写のように説明されています。

 サン・シルヴェストロの聖顔は、後述するマンデュリオン(エデッサの聖顔)と同一視されることがあります。



・マノッペッロの聖顔



(上) il Volto Santo di Manoppello

 マノッペッロ(Manoppello アブルッツォ州ペスカーラ県)はイタリア中部の小さな町です。当地のカプチン会付属聖堂に、イル・ヴォルト・サント・ディ・マニッペッロ(伊 il Volto Santo di Manoppello マニッペッロの聖顔)と呼ばれる聖遺物が伝わります。イル・ヴォルト・サント・ディ・マニッペッロは 1506年に氏名不詳の巡礼者がもたらしたものと伝えられ、縦二十四センチメートル、横十七センチメートルの布にイエスの顔が描かれています。

 イル・ヴォルト・サント・ディ・マニッペッロを安置する聖堂はイル・サントゥアリオ・デル・ヴォルト・サント(伊 Il Santuario del Volto Santo 聖顔の聖所)と呼ばれ、2006年に当地を訪れた教皇ベネディクトゥス十六世により、小バシリカとされました。



【エデッサの聖顔、あるいはマンデュリオン】



(上) Hans Memling, "Diptychon mit Johannes dem Taufer und der Heilige Veronika, rechter Flügel", um 1470, Öl auf Holz, 32 × 24 cm, The National Gallery of Art, Washington D. C.


 紀元前 132年から紀元後 214年にかけて、現在のシリアからイラクにまたがる地域にオスロエーネー(Ὀσροηνή)という王国がありました。オスロエーネーの首都はエデッサ(Ἔδεσσα)で、これは現在のトルコ領ウルファ(Urfa, Şanlıurfa シャンウルファ県)にあたります。

 エデッサの王アブガル五世(Abgar V Bar Ma'Nu)は紀元五十年頃に没した人物で、イエスとの関わりがシリア語外典文書「宝の洞窟」に初出します(註4)。年代上この次に位置する資料はエウセビオス「教会史」(註5)第一巻末尾(第十三章)で、イエスとエデッサ王アブガルのあいだに書簡が交わされたことを伝えています。「教会史」の当該部分を要約すると次の通りです。文の冒頭にあるアラビア数字は節番号を表します。


      1, 2. 重篤な不治の病に侵されたエデッサの王アブガルは、イエスの名前と権能を耳にしてイエスに頼ることにし、イエスに使者を遣わしてエデッサに招いた。3. イエスはエデッサ行きを断ったが、返書をしたため、アブガルの癒しと救いのために弟子を使わすことを約束した。4. イエスが受難、復活、昇天された後、使徒トマスはイエスに従う七十人のからタダイを選び、エデッサに遣わした。5. エウセビオスはエデッサの公文書保管所からアブガルの書簡とイエスの返書を借り出し、シリア語からギリシア語に訳した。
     
     《アブガルがイエスに宛てた書簡の写し》 ※引用者(広川)による要約
      6. エルサレムに現われ給うた救い主イエスに挨拶を送ります。あなたは不具者や癩者を癒し、悪霊を追い出し、死者をよみがえらせておられると聞きます。7. 私はあなたのお噂を耳にして、あなたが神、あるいは神の子であると考えるようになりました。どうかエデッサにお越しいただき、私の病を癒して下さいますようにお願いいたします。
     
     《イエスの返書》 ※引用者(広川)による要約
      10. 見ずに信じた汝は幸いである。わたしはこの地で目的を果たし、その後に父のもとに昇らねばならない。わたしは昇天の後、弟子を汝のもとに遣わし、汝を癒し、汝ならびに汝とともにある人々に救いをもたらそう。
     
     《両書簡に付されたシリア語文書》 ※引用者(広川)による要約
      11. - 15. 使徒トマスに命じられてエデッサに赴いたタダイは、当地であらゆる病を癒し始めた。タダイ到着のうわさを聞いたアブガルはタダイを宮廷に召喚し、あなたはイエスの弟子なのかと尋ねる。タダイはアブガルがイエスを信じているゆえに自分がエデッサに遣わされたと答える。17. アブガルはイエスと父なる神を信じると言い、タダイはアブガルの上に手を置いて、病を瞬時に癒した。また痛風に苦しむ縁者もたちどころに癒した。19. アブガルはエデッサの人々に福音を伝えるようにタダイに頼む。21. アブガルはタダイに金と銀を贈ろうとしたが、タダイはこれを受け取らなかった。22. この出来事が起こったのは、エデッサ暦 340年(紀元28年ないし29年)のことである。


 380年代に書かれた「エゲリア巡礼記」も、イエスとアブガルの間に交わされた書簡に言及し、「イエスの書簡を読み上げるとペルシャ軍がエデッから退却した」との奇跡譚をエデッサ司教から聴いたことを記録しています(註7)。






(上) クロード・メラン(Claude Mellan, 1598 - 1688)によるライン・エングレーヴィング 「ヴェロニカの布(きぬ)」 全体及び部分 "SUDARIUM" ou "Le Linge de Sainte Véronique", 1649, 43.3 x 31.7 cm platemark


 布に描かれたイエスの肖像に関して最初に言及が見られるのは、シリア語による四世紀または五世紀の文書で、ラテン語で「ドクトリーナ・アッドエイー」(羅 Doctrina Addoei タダイの教え 註8)と呼ばれる資料です。当該文書の十三章には、アブガル王の書簡を持ってイエスを訪ねた書庫係にして画家のハンナンは、親しく見(まみ)えたイエスの顔を描いて王のもとに持ち帰ったこと、王はこれを歓び、宮殿内の良い場所にイエスの肖像を飾ったことが記されています。

 次にイエスの肖像が記録に現れるのはエデッサが洪水に見舞われた 525年で、男性像を描いた布が市の西門上部から見つかりました。これはアブガルにもたらされたイエスの肖像と見做され、東ローマ皇帝ユスティニアヌス一世はエデッサにハギア・ソフィア聖堂(希 Ἁγία Σοφία 註9)を建造して、この肖像を安置しました。

 ペルシア皇帝ホスロー一世は 540年と 544年にエデッサを攻めましたが、ユスティニアヌス一世に仕えた歴史家カイサレウスのプロコピオス(Προκόπιος ὁ Καισαρεύς, c. 500 - c. 565)の「戦史」(Υπερ των Πολεμων, 552 - 554)によると、この時エデッサの住民はイエスの書簡に基づき、エデッサは決して外国に占領されないと語りました。エウセビオスがイエスのものとして引用する書簡にそのようなことは書かれていませんが、「アブガルと、アブガルとともにある人々に救いをもたらそう」との一節を、当時のエデッサ市民が拡大解釈したものと思われます。

 プロコピオスの「戦史」が超自然的な神の介入を語っていないのとは対照的に、シリアの著述家エワグリオス・スコラスティコス(Εὐάγριος Σχολαστικός, 536 - 594)は、著書「教会史」(Ἐκκλησιαστική Ἱστορία)四巻二十七章においてプロコピオスと同じ 544年の戦争を記述し、「人の手に依らず描かれ、キリストがアブガルに贈った」似姿から火が出て、ペルシア側が築いたランプ(ramp 攻城のための傾斜路)を焼き尽くし、ペルシア軍は退却した。この似姿はペルシア軍が攻めてくる前夜に、エデッサ司教の幻視によって見出されたものである、と述べています。その後 609年にササン朝ペルシアがエデッサを攻略した際、聖顔は再び行方知れずになりました。

 ダマスクスのヨハンネス(Ἰωάννης ὁ Δαμασκηνός, c. 675 - 749)はイコスクラスムに反対の論陣を張ったことで知られるギリシア教父ですが、著作「聖画像破壊者への駁論」(πρὸς τοὺς διαβάλλοντας τᾶς ἁγίας εἰκόνας)において、アブガルがイエスに似姿を求め、イエスが布を自身に押し当てて聖顔を写し取ったとの伝承を引用しています。ヨハンネスによると、聖顔は正方形ではなく細長い布に写し取られました。


 東ローマでは皇帝レオーン六世(Λέων Ϛʹ ὁ Σοφός レオーン賢帝)が 912年に崩御し、共同皇帝であった弟アレクサンドロス(Αλέξανδρος, 870 - 913)も一年後に病没しました。そのためレオーン六世と第四夫人ゾーエー(Ζωή Καρβωνοψίνα 黒い瞳のゾーエー)の間に生まれたコンスタンティノス七世(Κωνσταντίνος Ζʹ ὁ Πορφυρογέννητος, 905 - 959)が 913年に帝位に就きました。このときコンスタンティノス七世はいまだ幼かったため、母ゾーエーが摂政として実務を取り仕切りましたが、その後に起こった対ブルガリア戦争で東ローマ帝国は敗北し、ゾーエーは 919年に失脚して修道院に隠棲しました。ゾーエーに対して反乱を起こしたローマノス一世(Ρωμανός Αʹ Λεκαπηνός, 870 - 948)は軍人でしたが、十四歳の帝に娘を嫁がせて権力を固め、920年に正帝に即位してコンスタンティヌスよりも上位に立ちました。ローマノスは息子クリストフォロスを後継者にしようと試みますが、931年にクリストフォロスが死去したため、止むを得ずコンスタンティヌス七世を後継者に指名しました。ローマヌス一世は 944年12月に帝位を追われ、修道士として余生を過ごしました。

 ローマノスは帝位の簒奪者でしたが、為政者としては有能な人物でした。944年のエデッサはアラブの支配下にありましたが、東ローマ軍はこれを攻囲し、二百名のアラブ人捕虜と引き換えにエデッサの聖顔を手に入れました。同年八月十六日、エデッサの聖顔はコンスタンティノープルに移されました。当日の儀式において、エデッサの聖顔は老皇帝ローマノスの病を癒したと伝えられますが、この伝承は帝位簒奪者ローマノスが自らの立場の浄化を試みた現われと解釈できます。

 一方帝位に返り咲いたコンスタンティノス七世は「エデッサの肖像の物語」(羅 Narratio de Imagine Edessena)を編纂させ、ローマノス帝の元で聖顔が取り戻された史実を書き換え、聖顔がコンスタンティノープルにもたらされた際の儀式の様子を、イエスがコンスタンティノス七世とその帝室(マケドニア朝)に与え給うた祝福として描き直し、マケドニア朝がコンスタンティヌス大帝につながる正統の帝室であるとの宣伝に利用しました(註10)。


 コンスタンティノープルの帝室にもたらされたエデッサの聖顔は、1204年の第四次十字軍の際に再び所在不明になった後、1241年にボードワン二世からルイ九世に贈られた聖遺物コレクションの一部としてサント・シャペルに安置されました。エデッサの聖顔がサント・シャペルにあったことは、1534年及び 1740年の記録によって証明されます。しかるにこの聖遺物はフランス革命時に再び失われ、今日に至ります。



【悔悛のガリアとヴェロニカの布】



(上) 聖務日課書を持つリジューの聖テレーズ。向かって右のページにヴェロニカの布が刷られています。


 イエスを十字架で苦しめたことを償おうとする信心において、聖顔(仏 la Sainte Face)は大きな意味を持ちます。トゥールの聖者(仏 Le saint homme de Tours)と呼ばれる尊者レオン・パパン・デュポンは、フランス革命時に破壊されたトゥールの聖マルタンの墓所を再発見したことでも知られますが、聖顔への信心を広めるべく三十年間に亙って教会当局と交渉を続けたことにより、聖顔の使徒(仏 l'apôtre de la Sainte Face)とも呼ばれます。1876年にデュポンが亡くなると、その居宅はトゥール大司教区によって買い取られて改装され、聖顔の小礼拝堂(仏 l'Oratoire de la Sainte Face)とされました。イエスの聖顔への信心は、その後 1885年に、教皇レオ十三世(Leo XIII, 1810 - 1878 - 1903)によって認可されました。

 サン・ピエトロ聖堂に安置されるヴェロニカの布はひどく変色しており、肉眼で見ても何が描かれているのかほとんどわかりません。ましてや距離を隔てて見た場合、救い主の聖顔を判別することは全く不可能です。しかしながら 1849年1月6日、主のご公現の祝日に、サン・ピエトロ聖堂でこの聖遺物が公開されたとき、拝観に集まった大勢の信徒たちの目の前で、布に転写された救い主の聖顔が突然鮮明度を増し、しかも立体的に浮き出て、救い主の顔を完全に再現するという奇跡が起こりました。レオン・パパン・デュポンの自宅には、この聖遺物を再現した版画が掛かっていました。上の写真は聖務日課書を持つリジューの聖テレーズ(仏 Ste. Thérèse de la Sainte Face 聖顔の聖テレーズ)で、1897年6月7日に撮影されました。テレーズは聖務日課書(修道者用の祈祷書)の挿絵ページを示しており、レオン・パパン・デュポンの自宅にあったものと同じ版画が見えます。



【付論 ヴェロニカの布、及び聖遺物一般が有する意義 ― プロテスタンティズムと唯物論からの批判に備えて】

 別稿でも述べましたが、カトリック教会や東方正教会で崇敬される聖遺物は、プロテスタントにはありません。プロテスタントの中には聖書正典に基づかない信仰を迷信的と見做す傾向があります。しかしながらその意見が必ずしも正しいと筆者(広川)は思いません。その理由を二つ挙げます。

 第一に、「聖書のみ」というプロテスタントの態度は一見したところ実証的に思えますが、仔細に検討すると必ずしも一貫性、整合性があるとは言えません。プロテスタント教会の教義が聖書正典にのみ依拠するのに対し、ローマ・カトリック教会や東方教会を始めとする他の諸教会は聖伝も重視します。レゲンダ・アウレアに典型的にみられるように、伝承には善意の嘘や創作が容易に混入しますから、取り扱いには注意が必要です。しかしながら正典聖書の本文自体が口伝から出発し、多段階の編集を経て徐々に確立したことを考えれば、正典福音書のみに比較を絶した価値を見出し、他の資料を全く等閑視するのは首尾一貫した合理的態度といえません(註11)。

 第二に一貫性、整合性の点にとどまらず、宗教的豊饒さの点においても、プロテスタントの思想には問題があるように思えます。「正典聖書のみ」を強調しすぎるならば、キリスト教は新約正典の成立によって完結した古代宗教、生産性を失った博物館の展示品となりかねません。検査で取り出した臓器をホルマリンで固定すれば観察しやすいですが、眼前に現象する生命のありのままの姿を見ることはできません。それと同様に正典テクストのみを過大に重視してそれ以降の宗教史的事象から目を逸らすならば、初代教会時代に生きることを標榜しつつ、実際には現代人として思考するという中途半端な状態に陥るでしょう。

 次に唯物論者への反論を書くならば、ヴェロニカの布(きぬ)の伝承は長い歴史のなかで形成され成長した伝説であり、歴史的事実ではありません。それゆえ一つしかないはずのものがあちこちに存在していたり、伝承が錯綜していたりします。しかしながらこれをでたらめの一言で切り捨てるならば、それは歴史の内に生きて成長する宗教のダイナミズム(力動性)を価値無きものと決めつけることであって、ひいては歴史内存在である人間の精神のダイナミズムに死をもたらす態度にほかなりません。これに加え実証的検証に耐えて客観的事実と見做され得る宗教的事象は、キリスト教の内部において近現代に至るまで起こり続けているのであって、それらの力動的宗教事象を無視する皮相な実証性は、稍もすれば合理性を装う非生産的イデオロギーに転落しがちです。

 宗教とは生物が進化を重ね、遂に神の世界に触れるに至った崇高な生命現象です。このサイズの身体を持つ我々はいくら進化しても三次元の世界から出られず、神の世界に立ち入ることはできません。しかしながら我々の精神は、いわば背伸びをすれば神と人の限界領域(独 der Grenzbezirk, das Grenzgebiet)を手探りできる程度には進化しています。それゆえ再現性が無い、可感的・物質的裏付けが無いとの理由で宗教を無下に排撃するのは、人の心が備えるに至った生来的豊饒性と能力を自ら捨て去る態度であると筆者は考えます。



註1 「ピラト行伝」Πράξεις Πιλάτου 別名「ニコデモ福音書」は古くから知られる外典で、行伝の本体といえる一章から二十七章は、互いに関連性が薄い三部分(一章から十一章、十一章終わりから十六章、十七章から二十七章)で構成され、これに序文と二十八・二十九章を付加している。ピラトが登場するのはイエスの裁判を描写する一章から十一章のみで、この部分は 326年から 376年の間に成立している。

註2 「使徒言行録」 25:13に、ヘロデ・アグリッパ二世(ヘロデ・アグリッパ一世の長子)とその妹ベルニーケー(ヘロデ・アグリッパ一世の長女)が、カイサリアの総督ポルキウス・フェストゥスを訪問したとの記述がある。ベルニーケー(Βερνίκη)はベレニーケー(Βερενίκη)の別形である。

註3 パエヌルティマのイー(I)は長母音であるが、我が国における習慣的表記に従い、本稿ではヴェロニカと記す。スペイン語 "Verónica" の発音はベロニカで、日本語ヴェロニカ、ベロニカと同様に、アンテペヌルティマすなわちベロニカのロに強勢がある。ただし日本語が高低アクセントであるのに対し、スペイン語は強弱アクセントである。

 なおベレニーケー(Βερενίκη)、ベルニーケー(Βερνίκη)は珍しい名前ではなく、聖女ヴェロニカ以外にも、ヘロデ朝ユダヤのアグリッパ一世の母、長女、孫娘がこの名を有する。アグリッパ一世の母ベルニーケーは、サロメ(ヘロデ大王の妹)の娘である。アグリッパ一世の長女ベルニーケーは、ローマ皇帝ティトゥスの愛人であった。エジプトではプトレマイオス朝の四人の女王(ベレニーケー一世から四世)がこの名を有する。かみのけ座(羅 COMA BERENICES)のベレニーケーは、プトレマイオス朝のベレニーケー三世を指している。

註4 「宝の洞窟」はシリアのエフレム(Ἐφραίμ ὁ Σῦρος, 306 - 373)の著述を基にして成立したシリア語外典文書で、現在の形に整ったのは六世紀頃と考えられている。

註5 「教会史」(希 ἐκκλησιαστικῆς ἱστορίας)はカイサレアのエウセビオス(Εὐσέβιος ὁ τῆς Καισαρείας, 264 - 340)の主要著作で、古代教会史の重要資料である。

註6 アレッツォ(Arezzo トスカナ州アレッツォ県)はフィレンツェの南東約八十キロメートルにある古都である。1884年、この町にある聖マリア修道院の図書館で、後にコーデクス・アーッレーティヌス(羅 Codex Arretinus アレッツォ写本)と呼ばれることになる手稿が見つかった。コーデクス・アーッレーティヌスは十一世紀にモンテ・カッシーノ修道院で筆写されたもので、「エゲリア巡礼記」(羅 Peregrinatio/Itinerarium Egeriae)の一部を含む。エゲリア(Egeria)またはエテリア(Etheria, Ætheria)は西ヨーロッパの女性で、381年ないし 386年頃にパレスチナの聖地を巡礼し、詳細な記録を残している。

註7 エデッサにキリスト教が伝わった実際の時期については、紀元二世紀初頭から三世紀初頭まで様々な説がある。五世紀半ばには外典文書「タダイの教え」(シリア語 Mallpānutā d-Adday šliḥā)が成立し、アブガルからイエスの許に遣わされた画家アナンがイエスの肖像を描いたとしている。

註8 アッダイ(Addaï)はタダイ、タッダイに同じ。アッドエイー(Addoei)はギリシア語アッダイオス(Ἁδδαῖος Θαδδαῖοςに同じ)を経由してラテン語に入ったアッデウス(Addeus Thaddeusに同じ)のギリシア語式第三種転尾属格である。

註9 ハギア・ソフィア(希 Ἁγία Σοφία 聖なる智恵、上智)は、ディーウィーナ・サピエンティア(羅 Divina Sapientia 神の智恵)なるイエス・キリストを指す。上智なるイエスに捧げた聖堂は上智の座なるマリアの隠喩ととらえることができる。コンスタンティノープル(イスタンブール)のハギア・ソフィア(アヤソフィア)についても同様である。いずれにせよハギア・ソフィア聖堂は、ソフィアという聖女に捧げられたものではない。

註10 マケドニア朝はコンスタンティノープルに繁栄をもたらし、東ローマ帝国の最盛期を築いた王朝であるが、その始祖は農民出身のバシレイオス一世(Βασίλειος Αʹ, c. 811 - 886)であって、コンスタンティヌス大帝と無関係である。

註11 新約聖書の正典本文が確定される前段階として口伝が存在したことは論理的に考えて当然であるが、これを端的に示す資料としてパウロ書簡が挙げられる。「コリントの信徒への手紙 一」 11章 23 - 25節には、最後の晩餐の際にイエスが述べ給うた言葉が引用されている。しかしながらこの箇所を唯一の例外として、福音書が記録するイエスの言行は、パウロ書簡に一切引用されていない。

 同書簡の 15章 3 - 7節には「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(新共同訳)とあるが、ここでパウロが言う聖書とは旧約聖書のことである。十二人に現れたという記述に関しても福音書に該当箇所は見当たらず、この十二人が誰のことか曖昧である。ヒエロニムスのヴルガタ訳はこの十二人を十二使徒と解釈し、そこからイスカリオテのユダを差し引いて十一人に訂正している。復活したイエスが五百人以上に同時に現れたとの記録も、ヤコブに現れたとの記録も、福音書には見出せない。これらのことからパウロ書簡が書かれた時点で福音書は未だ成立していなかったこと、パウロが知っていたのは口伝等の前資料であったことが明白である。



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