モン=サン=ミシェル修道院の歴史  2-2. ノルマンディー公とモン=サン=ミシェル修道院 (10世紀から12世紀)

 ノルマンディー公リシャール1世


 ロロの孫、ノルマンディー公リシャール1世 (Richard I de Normandie, dit Richard Sans-Peur, c. 930 - 996) の時代に、モン=サン=ミシェルはベネディクト会の修道院になります。ベネディクト会の記録によると、その経緯は次の通りです。

 モン=サン=ミシェルの修道士たちはロロによって呼び戻されましたが、長らく修道院を離れて暮らした修道士たちの士気の低下は甚だしく、927年に父ロロからノールマンディー公を継いだギヨーム1世 (Guillaume I de Normandie, + c. 942) はモン=サン=ミシェルの改革に取り組みました。しかしながら15箇所にも上る広大な領地に牧場や葡萄園、水車等を所有するようになった修道院はすっかり世俗領主化してしまい、宗教的熱情を取り戻すのは困難でした。

 モン=サン=ミシェルの堕落ぶりは目に余るものがあったので、ギヨーム1世の息子であるリシャール1世は修道士たちを宮廷に召喚して叱責しましたが、効果はありませんでした。そこでリシャール1世は、西フランク王ロテール(ロタール Lothaire/Lothar, 941 - 986)及び教皇ヨハネス13世 (Ioannes XIII, + 972) の同意を取り付けたうえで、965年、当時フォントネル修道院 (l'abbaye de Fontenelle) と呼ばれていたサン=ヴァンドリル=ランソン (Saint-Wandrille-Rancon オート=ノルマンディー地域圏セーヌ=マリティーム県)のサン=ヴァンドリル修道院 (l'abbaye de Saint-Wandrille) から、ベネディクト会士たちを招く決心をします。

 リシャール1世は高位聖職者たち、領主たち、数か所の修道院から募った30名の修道士たちを引き連れてアヴランシュに入り、そこから廷臣のひとりをモン=サン=ミシェルに遣わして命令を布告させました。その内容は今後ベネディクト会の戒律を厳格に守って禁欲的な修道生活を行うか、さもなくばモン=サン=ミシェルを出て行くべしというものでした。モン=サン=ミシェルの修道士たちのうち、ただひとりがベネディクト戒律を受け入れ、他の者は全員モン=サン=ミシェルを後にしました。初代修道院長には貴族出身のフランドル人メナール1世 (Maynard 1, + 991 註1) が就任し、ここにベネディクト会修道院モン=サン=ミシェルが誕生しました。


 ベネディクト会の記録は以上の通りですが、モン=サン=ミシェルがベネディクト会修道院となるには宗教的理由よりもむしろ政治的理由が大きく寄与しており、先にここにいた修道士たちが堕落したために追放されたというベネディクト会の主張を鵜呑みにすることはできません。

 モン=サン=ミシェルはノルマンディー公国の西端、ブルターニュとの境界にあり、その戦略的意味は重大です。したがってここにはノルマンディー公に忠誠を誓う修道士たちを配置する必要があります。しかしモン=トンブの時代からここにいた修道会にはそのような気持ちは無く、むしろブルターニュと親しい関係を築いていました。

 しかるにフォントネルの場合、戦乱を逃れた修道士たちが修道院に戻れたのは、ノルマンディー公リシャール1世が庇護を与えたおかげでした。それゆえ彼らはノルマンディー公に忠誠を誓っており、戦略的要衝に配置する人材として、フォントネルの修道士たちは理想的であったのです。


 初代修道院長メナールはモン=サン=ミシェル修道院に対する俗権の影響力を積極的に排除せず、このことは11世紀から12世紀前半にかけて修道院とノルマンディー公との間に緊張が生じる素因となります。モン=サン=ミシェル修道院は修道院長を自ら選ぶために教皇ヨハネス13世の教勅を偽造しますが、歴代のノルマンディー公は修道院長の叙任権を主張して修道院に圧力をかけ続けました。


 11世紀はモン=サン=ミシェル修道院の発展期でもありました。ノルマンディー公及び諸領主からの寄進により、モン=サン=ミシェルの所領は地域を超えた広がりを見せました。最初期の奇蹟譚が編まれたのもこの頃で、モン=サン=ミシェルへの巡礼路が発達した時期と一致しています。

 この頃、モン=サン=ミシェルの修道士はおよそ50名に増え、巡礼者も多数に上って、建物が手狭になりました。また992年に火災があったせいで、当時の建物は傷んでいました。そこで1020年頃から修道院付属聖堂の建設が始まり、1080年頃に完成しました。




(上) クェノン川を渡るギヨーム征服王。遠景はモン=サン=ミシェル。バイユーのタピスリーより。


 ノルマンディー公ギヨーム征服王 (Guillaume le Conquerant, 1027 - 1087) が 1066年にヘイスティングズの戦いで勝利してイングランド王となると、当時のモン=サン=ミシェル修道院長ラニュルフ・ド・バイユー (Ranulphe de Bayeux, 在位 1063 - 1085) はギヨームに船数隻ぶんの贈りものをしました。この見返りとしてギヨームはモン=サン=ミシェルにイングランドにある四つの修道院の運営を任せました。


 ラニュルフ没後三代の修道院長、ロジェ1世 (Roger I, 在位 1085 - 1102)、ロジェ2世 (Roger II, 在位 1106 - 1122)、リシャール・ド・メール (Richard de Mere, 在位 1125 - 1131) の時代、モン=サン=ミシェルは内部対立と規律の緩みを経験しましたが、ノルマンディー公にしてイングランド王のアンリ1世 (Henri I, 1068 - 1135) は 1131年、ル・ベック=エルアン(Le Bec-Hellouis オート=ノルマンディー地域圏ウール県)のベネディクト会修道院ノートル=ダム・デュ・ベック (L'abbaye Notre-Dame du Bec) から、聖性の誉(ほまれ)高いベルナール・デュ・ベック (Bernard du Bec, 在位 1131 - 1149) を,、モン=サン=ミシェルに招きました。新院長はモン=サン=ミシェル修道院の財政を立て直しただけでなく、トンブレーヌとドラジェ=ロントン (Dragey-Ronthon)、更には遠くコーンウォールにもモン=サン=ミシェルの分院セイント・マイクルズ・マウント (St. Michael's Mount) を建設しました。じかしベルナールの時代である1138年、モン=サン=ミシェルに大火があり、付属聖堂を残してすべてが焼け落ちました。これはアンリ1世の後継者を巡る政治的対立の結果である可能性がありますが、いずれにせよ修道院の再建に大きな財政負担を要する結果となりました。


 1154年、ノートル=ダム・デュ・ベック修道院長ロベール・ド・トリニ (Robert de Torigni, c. 1110 - 1186) が、モン=サン=ミシェル修道院長に選ばれました。年代記作者としても知られるロベールは聖性においても知性においても非常に優れた人で、院長を慕ってモン=サン=ミシェルに住まう修道士の数は、それまでで最も多い60名に達しました。ノートル=ダム・デュ・ベックは当時のヨーロッパにおいて学問が最も進んだ場所の一つであり、ここから招かれたロベール院長のもと、モン=サン=ミシェル修道院はアリストテレスをはじめとするギリシア語の著作をラテン語に翻訳するという重要な仕事(註2)によって、西ヨーロッパにおける学問の発達に重要な貢献を行いました。数多くの写本を産み出したこの時代のモン=サン=ミシェルは、「ラ・シテ・デ・リーヴル(la Cité des livres 本の町)と呼ばれました。


(下) ロベール・ド・トリニによるシャペル・サン・トベール (la Chapelle St. Aubert 聖オベール礼拝堂)




 またロベール院長は修道院が失った土地や教会を寄進や買い戻しによって再び確保し、修道院の収入を飛躍的に増やしました。この富を使って、モン=サン=ミシェルではいくつかの部分が新しく建設されましたが、ロベールの時代の建築は崩壊や取り壊しによってほとんど現存していません。すなわちこの時代に建てられた付属聖堂西側正面の塔のうち、一基は崩落し、もう一基は崩落の危険があったので取り壊されました。また南側に建てられ、食糧貯蔵室、来客用宿泊室、病院で構成されていた建物は、1817年に崩落して取り壊されました。ロベール院長時代の建物は西側部分のみが現存しています。



註1 メナールはベネディクト会の改革者として知られる聖ジェラール・ド・ブローニュ (St. Gerard de Brogne, c. 895 - 959) の弟子です。

註2 当時ギリシア語の著作は、トレドにおいてアラビア語から重訳されていました。




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