未販売のヴィンテージ マグダラのマリアの小さなメダイ 《香油の壺を抱えて泣く聖マドレーヌ 20.8 x 12.7 mm》 稀少なヴェズレー関連品


突出部分を含むサイズ 縦 20.8 x 横 12.7 mm  最大の厚さ 3.0 mm

重量 2.0 g


フランス  1960年代



 1960年代のフランスで鋳造された聖マリ=マドレーヌ(マグダラのマリア)のメダイ。

 現在のフランスでマリ=マドレーヌの聖地といえばプロヴァンスのサント=ボームですが、中世盛期の人々はブルゴーニュのヴェズレー(Vézelay 現ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ヨンヌ県)に聖女の遺体(聖遺物)があると考えて、当地のクリュニー会修道院に押し寄せました。サント=ボームに関連するマリ=マドレーヌのメダイは比較的手に入り易いですが、十四世紀半ばまでに衰退したヴェズレーのメダイはほとんど手に入りません。本品はマドレーヌの裏面にヴェズレーのバシリカを刻んだ珍しい作品で、ほぼ入手不可能な稀少品です。





 メダイの表(おもて)面には悔恨の涙を流すマリ=マドレーヌが浮き彫りにされています。キリスト教の聖女たちは常にヴェールを被った姿で表現されますが、マリ=マドレーヌは例外で、女性の魅力を誇示する髪を隠さずに描かれる場合が多くあります。しかしながら本品のマリ=マドレーヌは、長く美しい髪を覗かせつつも質素なヴェールを被り、悲しげな表情でうつむいています。聖女の眼からは大粒の涙がこぼれています。

 「サント・マリ=マドレーヌ」(仏 Sainte Marie-Madeleine 聖マリ=マドレーヌ、マグダラの聖マリア)の文字が、浮き彫りを囲むように記されています。メダイの右下に見えるジ・ベ(JB)のモノグラムは、フランス西部ソミュール(Saumur ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メーヌ=エ=ロワール県)のメダイユ工房、ジ・バルム(la société J. Balme)の刻印です。


 両手を組んで悔恨のうちに祈る聖女の膝には、ナルドの香油を入れた壺が抱かれています。ナルド(Nardostachys jatamansi)はオミナエシ科ナルドスタキス属に属するヒマラヤ原産の多年草で、和名をカンショウコウ(甘松香)といいます。乾燥した根茎は薬用にもなりますし、そこから抽出した精油は古代において最も高価な香油として珍重されました。

 「マタイによる福音書」二十六章六節から十三節では、ベタニアのシモンの家でイエスが食事の席についておられるとき、名前を挙げられていない一人の女が非常に高価な香油をイエスの頭に注ぎかけたと書かれています。この無駄遣いを憤る弟子たちに、イエスは女が香油を注ぎかけることによって、イエスの埋葬の準備をしたのだと説きました。これと同じ出来事は「マルコによる福音書」十四章三節から九節にも記録されています。マルコ伝にも女の名前は書かれていませんが、イエスに注がれたのがナルドの香油であったことは明記されています。「ヨハネによる福音書」十二章一節から八節には、イエスがベタニアのラザロの家で食事をなさっていた時に、マリアがイエスの足にナルドの香油を注ぎかけ、自分の髪で拭ったと記録されています。イスカリオテのユダがこれを無駄遣いだと非難したのに対し、イエスはマリアがイエスの葬りの日のために香油を取っておいたのだと言いました。ここでも三節にナルドの語が明記されています。

 これら三か所の記事が言及するのは恐らく同一の出来事で、ナルドの香油をイエスに注いだ女は、マグダラのマリア(マリ=マドレーヌ)に他ならないと考えられました。それゆえ宗教美術において、ナルドの香油を入れた壺はマグダラのマリア(マリ=マドレーヌ)の持物(じぶつ アトリビュート)となっています。





 十一世紀にマリ=マドレーヌの巡礼地となったヴェズレーの修道院は、もともと聖母と救い主に捧げられたベネディクト会の修道院でした。1037年にここの修道院長となったジョフロワ(Geoffroy 在職 1037 - 1050)は、規律が緩んで衰退していた修道院の改革に取り組み、クリュニー会の戒律を受け入れました。当時マグダラのマリアに捧げた西ヨーロッパで最初の聖堂がヴェルダンにおいて建設中でした。院長ジョフロワはこの聖女に目を付けて、ヴェルダンからマグダラのマリアの信仰を導入しました。院長の思いつきは功を奏し、聖女の遺体があると思われたヴェズレーには巡礼者が押し寄せました。サンティアゴ・コンポステラ巡礼の出発点であったことも手伝って、ヴェズレー修道院は飛躍的な繁栄を遂げました。

 しかしながら有名な巡礼地となるにつれて、パレスティナから遠く離れたヴェズレーになぜマリ=マドレーヌの遺体があるのかを合理的に説明して、巡礼者たちを納得させる必要が出てきました。そこで考案されたのが、聖女たちが迫害を逃れるために舟に乗って聖地を脱出し、フランスに来たという説明でした。すなわちマリ=マドレーヌを含む聖女たちはカマルグに上陸した。マリ=マドレーヌはサント=ボームに移ってそこで生涯を終え、当地の聖堂サン=マクシマンに葬られた。ヴェズレーではサン=マクシマンに修道士を派遣して、その遺体を盗み出すことに成功した。このような事情によってマリ=マドレーヌの遺体がヴェズレーにある、というのです。

 ヴェズレーのマリ=マドレーヌに対する崇敬は十一世紀後半、とりわけ 1090年代に急に広まり、ヴェズレー修道院は多くの寄進を受けて、広大な領地を有するようになりました。またこの時期にはヴェズレー以外の各地の聖堂にも、マグダラのマリアに捧げられた礼拝堂が数多く造られました。マリ=マドレーヌに対する崇敬は急速かつ強力に伝播したため、建設中の聖堂、あるいは完成間近であった多数の聖堂において、当初の設計に含まれていなかった聖女の礼拝堂が、ナルテクス(前室)の階上や鐘楼に追加されています。この事実はあらゆる地域の人々がこぞって熱心にマリ=マドレーヌ崇敬を受け入れたことを物語ります。





 社会に教育制度が存在せず、信仰の内面化など思いもよらなかった中世の人々にとって、信仰とは聖地に詣でて聖遺物を拝することに他なりませんでした。有力な聖者の遺物(遺体)があれば巡礼者が集まり、巡礼者たちからのみならず、領主層から多額の寄進が集まります。逆にそのような聖遺物を持たなければ、修道院は客を奪われて衰退し、やがては廃院となりかねません。それゆえ有力な聖遺物を所有することは、各地の修道院にとって死活問題でした。

 ヴェズレーの修道士たちが考え出したマリ=マドレーヌの物語は荒唐無稽なでたらめですが、聖人伝にでたらめはつきものであって、どこの修道院や教会でも、さらにはどの宗教でも、荒唐無稽な伝説は普通に見られます。ガリシアのサンティアゴ、ヴェネツィアの聖マルコ、ケルンの東方三博士など、すべてこれに当て嵌まります。現代の新興宗教を見れば、時と場所が変わっても、聖人伝の在り方に変わりがないことが容易に理解できるでしょう。ヴェズレーが特に悪いわけではありません。

 特に中世の西ヨーロッパ社会は、キリスト教信仰及びキリスト教会と完全に一体化していました。教会から離れた一般社会というものは、そもそも存在しなかったのです。年端の行かない幼児が高位聖職者に任じられたり、高位聖職者個人が広大な領地を有していたりするのを非難する人がいますが、宗教的良心を社会の在り方から切り離して考えるのは近代人の発想であり、中世人が生きた世界とは無縁の心性です。全体としてのキリスト教会、及び個々の教会や修道院が、中世ヨーロッパにおいて経済団体の如く機能していた状況は、宗教の堕落でも何でもなく、社会制度がそうなっていただけのことです。

 ヴェズレー修道院が語る荒唐無稽な聖人伝は、生命や健康に被害を及ぼしかねない現代の企業の犯罪に比べれば、よほど罪が軽い。罪でさえないと筆者(広川)は考えます。ヴェズレーの嘘がもたらした文化的実りを、現代の我々はむしろ評価すべきでしょう。ヴェズレーのライヴァルであるサン=マクシマンがプロヴァンスに有する壮麗な聖堂も、カマルグの美しいサント=マリ=ド=ラ=メールも、タラスコンのサント・マルトも、オータンのサン・ラザールも、すべてヴェズレーの嘘がもたらした果実に他なりません。





 上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。聖女の顔の高さは二ミリメートルにも足りませんが目鼻立ちは美しく整い、艶やかな長い髪、胸の膨らみ、形の良い鎖骨と腕など、美女とされるマリ=マドレーヌに相応しい姿かたちが、大型彫刻に劣らない写実性で再現されています。





 もう一方の面にはブルゴーニュのヴェズレーにある聖マリ=マドレーヌのバシリカ (La Basilique de Sainte-Marie-Madeleine, Vézelay) の西側正面が、精緻な浮き彫りによって描き出されています。周囲にフランス語で「バジリク・ド・ヴェズレー」(仏 Basilique de Vézelay ヴェズレーのバシリカ)と記されています。

 1146年の復活祭に、クレルヴォーの聖ベルナールは第二回十字軍を推進する説教をヴェズレーの聖堂で行いました。さらに 1190年にはイングランド国王リチャード一世とフランス国王フィリップ・オーギュストはヴェズレーに三ヶ月間滞在した後、第三回十字軍に出発しました。このバシリカにはナルテクス(前室)奥の正面扉口に聖霊降臨(ペンテコステ)をテーマにした異色のタンパンがあり、十字軍の理念を表現するものとして制作されたと考えられています。

 聖マリ・マドレーヌの聖地であるヴェズレーのクリュニー修道院は、盛期中世の西ヨーロッパにおいて最も有力な巡礼地のひとつでしたが、十三世紀末にラ・サント=ボームとの競争に敗れて以来、凋落の一途をたどります。プロスペル・メリメ(Prosper Merimée, 1803 - 1870)が 1834年に調査したとき、建物は崩壊寸前でしたが、ヴィオレ=ル=デュク(Eugene Emmanuel Viollet-le-Duc, 1814 - 1879)の手で 1840年から二十年以上にわたって修復が重ねられた結果、昔日の栄光を取り戻しました。

 教皇マルティヌス四世(Martinus IV, 1210/20 - 1281 - 1285)は 1281年、サン(Sens ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ヨンヌ県)の司教に聖マリ=マドレーヌの聖遺物を贈りましたが、サン大司教はこれを 1876年にヴェズレーに贈り、ヴェズレーは再び聖マリ=マドレーヌの巡礼地となりました。巡礼は 1912年にいったん中止されますが、1920年、聖堂がバシリカとされたことをきっかけに再開し、現在に至っています。聖マリ=マドレーヌのバシリカはユネスコの世界遺産に指定され、ヴェズレーはフランスで最も美しい村(仏 Les plus beaux villages de France)のひとつにも選ばれています。





 中世の人々は、ヴェズレーにせよ、ラ・サント・ボームにせよ、フランスに渡った聖マリ=マドレーヌ(マグダラのマリア)の聖地を熱心に訪れ、崇敬を捧げました。しかしながら現代人の眼から見ると、聖マリ=マドレーヌのフランス渡来は史実の可能性が無い伝説に過ぎず、それゆえこの聖女を主題にした信心具としてのメダイは、現在では作られにくい状況であるといえます。実際のところマリ=マドレーヌのメダイは数が少ないですし、もし手に入った場合でもほぼ全てがラ・サント=ボームの関連品であり、ヴェズレーのメダイはまず見つかりません。それゆえヴェズレーのマリ=マドレーヌを主題にした本品は、たいへん珍しい作例です。

 本品は 1960年代のヴィンテージ品に関わらず、未販売のまま残っていた品物です。本品に浮き彫りにされたマリ=マドレーヌ像は精緻かつ立体的で、サイズを超えた存在感がありますが、まったくの新品であるゆえに突出部分は一切摩滅しておらず、フランスが誇るメダイユ彫刻の優れた芸術性を、余すところなく現代に伝えています。中世のヴェズレー修道院に繋がる文化性、ヴィンテージ品にもかかわらず新品のまま保存されてきた稀少性、優れた浮き彫りが有する芸術性の全てにおいて、本品は小さくとも魅力的なアンティーク・メダイユです。





本体価格 15,800円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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