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極稀少・未使用品 フィリップ・シャンボー作 《混沌の河を渡る聖クリストフと、身に帯びる信仰 直径 30.7 mm》 フランスの薫り高い大型の作品 フランス 1960年代


突出部分を除く直径 30.7 mm  最大の厚み 3.8 mm  重量 12.2 g



本体価格 35,800円




 今からおよそ六十年前のフランスで、彫刻家フィリップ・シャンボーの手により制作された大型のメダイ。十三世紀の聖人伝にしたがって、幼子イエスを運ぶ聖クリストフォロス(聖クリストフ、聖クリストファー)を刻み、二色の青色ガラスによるエマイユ・シャンルヴェを背景の波に施しています。制作国を示す文字(FRANCE)が、上部の突出部分に刻印されています。





 ヨーロッパの男性名クリストフ(仏 Christophe)、クリストファー(英独 Christopher)は、聖クリストフォロスに因みます。しかるにクリストフォロスは普通の意味の人名ではありません。クリストフォロス(希 Χριστόφορος)は古典ギリシア語で、クリストス(希 Χριστός)の語根クリスト "Χριστ-" と、運ぶ人を表すフォロス "-φορος" を、アンテパエヌルティマ(後ろから三番目の母音)の "-ο-" で繋いだ語です。すなわちクリストフォロスはキリストを運ぶ人という意味で、本来固有名詞ではありません。

 聖クリストフォロスの物語は十三世紀の聖人伝集成レゲンダ・アウレア(LEGENDA AUREAによってよく知られます。しかるにレゲンダ・アウレアは信仰心の高揚を唯一の目的としたハギオグラフィアであって、歴史的事実の記録ではありません。同書の記述はほぼすべてが作り話であって、聖クリストフォロスに関しても歴史的に実在する聖人とは考えられません。聖クリストフォロスをはじめとする「レゲンダ・アウレア」の聖人たちは、いわばキリスト教信徒の理想の在り方が人の姿に具現化したものといえます。


 「レゲンダ・アウレア」において、クリストフォロスが担ぎ運ぶ幼子イエスは途中でたいへん重くなり、さしもの大男(クリストフォロス)も動けなくなりました。幼子はクリストフォロスに向かい、自分こそが天地の創造主であることを宣言しました。これはキリストが負った世の罪が重いというような意味ではなくて、物理的な重量のことを言っています。すなわち宇宙をお創りになった神は宇宙よりも大いなる方であるゆえに、宇宙よりも重いということを言っているのです。

 芥川龍之介は「きりしとほろ上人伝」において、キリストの重さを世の罪を負ったゆえとしています。一見したところ、これは「レゲンダ・アウレア」よりも洗練された説明に思えます。しかしながら幼子が重くなった理由についてさらに深く考えるならば、レゲンダ・アウレアに記された幼子の言葉は、受肉したキリストこそが神と人を繋ぐアークシス・ムンディー(羅 AXIS MUNDI 世界軸)であることを示しています。

 古代ギリシアの哲学において、コスモス(希 κόσμος 秩序ある宇宙)を貫き万物を支配する理法は、ロゴス(希 λόγος ことば)と呼ばれます。「ヨハネによる福音書」 はこの意味のロゴスをキリストに当て嵌め、受肉し給うたイエスをロゴス(ことば)と呼んでいます。同福音書一章一節から五節を引用します。ギリシア語原文はドイツ聖書協会のネストレ=アーラント二十六版、日本語は新共同訳によります。


     Nestle-Aland 26 Auflage    新共同訳
     Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.    初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
     οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.    この言は、初めに神と共にあった。
     πάντα δι' αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν. ὃ γέγονεν    万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
     ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων:    言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
     καὶ τὸ φῶς ἐν τῇ σκοτίᾳ φαίνει, καὶ ἡ σκοτία αὐτὸ οὐ κατέλαβεν.    光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。





 本品メダイの浮き彫りにおいて、クリストフに抱かれた幼子は全宇宙の支配権を示すグロブス・クルーキゲル(世界球)を左手に持ち、右手で天を指さして、自分が天地の造り主であることを宣言しています。渡河を試みて奔流に行き泥(なず)むクリストフォロスですが、その表情が平穏で明るいのは、右手に持つ頑丈な杖にも増して頼りになる御方、イエス・キリストを見出したからです。


 受肉したロゴスであるイエス・キリストは、神のいます天上界とこの地上を繋ぐアークシス・ムンディー(世界軸)に他なりません。アークシス・ムンディーは宗教的世界認識の支点であり、有(羅 ENS, ENTES 存在する事物)の総体であるウーニウェルスム(羅 UNIVERSUM 宇宙)に秩序と意味を与えます。

 シカゴ大学神学部教授ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade 1907 - 1986)は、ルーマニア生まれの宗教学者です。エリアーデ教授の著作は多くがフランス語によりますが、パリからアメリカに移住した1957年の著書「聖なるものと俗なるもの ― 宗教的なるものの本質について」(„Das Heilige und das Profane - Vom Wesen des Religiösen“, Rowohlts Deutsche Enzyklopädie, Nr. 31, Hamburg, 1957)はドイツ語で著されています。

 同書の第一章においてエリアーデ教授が論ずるところによると、世俗的人間と宗教的人間(宗教心のある人間)は、住む世界が異なります。世俗的人間を取り巻くウニヴェルズム(独 das Universum 世界)の各部に質的差異は無く、聖なる空間(聖なる場所、聖地)は存在しません。世俗的人間が経験する空間はあたかも幾何学空間のように均質であり、無限に分割することができます。世俗的人間が経験する空間は、如何なるオリエンターチオー(羅 ORIENTATIO 方向づけ)にも馴染みません。これに対して宗教的人間は、神の顕現(独 die Theophanie)が起こる聖地を支点にして、ウニヴェルズム(世界)をコスモス化(独 die Kosmisierung)します。すなわち聖地こそがウニヴェルズムに意味を与えるのです。このような働きを為す聖地を、エリアーデは世界軸(羅 AXIS MUNDI)とも固定点(独 ein feste Punkt)とも呼んでいます。

 ミルチャ・エリアーデ「聖なるものと俗なるもの ― 宗教的なるものの本質について」の第一章「聖なる空間と世界の聖化」(Kapitel I, Der heilige Raum und die Sakralisierung der Welt)から、「空間の均質性と聖なるものの顕現」(Homogenität des Raums und Hierophanie)の一部を引用し、和訳を添えて示します。和訳は筆者(広川)によります。筆者の訳はドイツ語の意味を正確に移していますが、こなれた日本語になるように心掛けたため、逐語訳ではありません。文意が通じやすいように補った訳語は、ブラケット [ ] で囲みました。


      Doch wollen wir diesen Aspekt des Problems zunächst beiseite lassen und uns auf den Vergleich der beiden in Frage stehenden Erfahrungen - der Erfahrung des heiligen Raums und der Erfahrung des profanen Raums - beschränken.     しかしながら[議論を]始めるにあたり、問題のこの側面は脇に除けておき、いま問われている二つの経験 ― すなわち聖なる空間の経験と、俗なる空間の経験 ― を比較することだけを考えよう。
         
     Wir erinnern uns: die Offenbarung eines heiligen Raums gibt dem Menschen einen >festen Punkt< und damit die Möglichkeit, sich in der chaotischen Homogenität zu orientieren, >die Welt zu gründen< und wirklich zu leben.    ここで思い起こされるのは、次のことである。すなわちひとつの聖なる空間が啓示されれば、人間は[これによって]ひとつの「固定点」を得る。そしてその固定点を使えば、人間は無秩序な均質性のうちにありながらも自身を方向づけ、「世界を基礎づけ」、真に生きる可能性を得る。
         
     Die profane Erfahrung dagegen bleibt bei der Homogenität und folglich der Relativität des Raums.    これに対して、俗なる経験は均質性に留まり、その結果として、空間の相対性に留まることになる。
     Eine wahre Orientierung ist unmöglich, denn der >feste Punkt< ist nicht mehr eindeutig ontologisch bestimmt; er erscheint und verschwindet je nach den Erfordernissen des Tages.    [俗なる人間にとって、]真の方向づけは不可能である。なぜならば[俗なる人間の経験においては]「固定点」がもはやはっきりと存在論的に決定されないからである。その日の必要に応じて、固定点が現れたり消えたりするのだ。
     Es gibt, also eigentlich keine >Welt< mehr, sondern nur noch Fragmente eines zerbrochenen Universums, eine amorphe Masse unendlich vieler mehr oder weniger neutraler >Orte<, an denen der Mensch sich bewegt, getrieben von den Verpflichtungen des Lebens in einer industriellen Gesellschaft.    それゆえ、本来的に言えば、[俗なる人間にとって]もはや「世界」は存在せず、ただ壊れたウニヴェルズムのかけらが残るのみである。ウニヴェルズムのかけらは不定形の塊で、無限に多くの数の、多少なりとも中性的な場所から成っている。産業社会の生活によって生じる様々な義務に急き立てられて、人はそこを動くのである。
         
     Mircea Eliade, „Das Heilige nd das Profane - Vom Wesen des Religiösen“, Rowohlts Deutsche Enzyklopädie, Nr. 31, Hamburg, 1957, Kapitel I, Der heilige Raum und die Sakralisierung der Welt (Homogenität des Raums und Hierophanie)    ミルチャ・エリアーデ「聖なるものと俗なるもの ― 宗教的なるものの本質について」 第一章「聖なる空間と世界の聖化」 《空間の均質性と聖なるものの顕現》






 宗教的人間が経験する聖なる空間と、世俗的人間(宗教心が希薄な人間)が経験する俗なる空間は、性質が全く異なります。上の引用個所では本来の主題である前者よりも、むしろ後者に多くの言が費やされていますが、我々が日ごろ無自覚に経験している「俗なる空間」の特性を分析することで、「聖なる空間」の特性が逆照射されて浮かび上がります。

 宗教的人間にとって、聖なる空間は固定点(独 ein feste Punkt)です。固定点は世界軸と同じもので、聖なる世界に向けて開いた窓に譬えることができます。無秩序で均質であった世俗的空間は、固定点を得ることによって基礎付けられ、意味を獲得します。

 人が生きる世界は、固定点において、至高の存在と関連付けられます。エリアーデはこれを「世界の聖化」(独 die Sakralisierung der Welt)と呼んでいます。聖化された世界に生きる人は、日々の生活と人生において進むべき方向を示されます。聖化された世界においてこそ、人は真に生きる可能性、すなわち生きるべき生を自覚して生きる可能性を得るのです。


 在りて在る者(希 ὄντως ὄν)がモーセに顕現し給うたホレブ(「出エジプト記」三章)をはじめ、ヤコブが天の梯子の夢を見たベテル(「創世記」二十八章)、イエスが十字架にかかり給うたゴルゴタ、キリストの聖墳墓、エルサレム神殿、ジグラット、ボロブドゥール寺院、メッカのカーバ、ロルシュ年代記が言及する、カール大帝によって破壊されたエレスブルクの聖所と聖樹等の聖地は、いずれも均質な空間に開いた孔であり、至高の存在に通じる固定点、聖なる世界と繋がる世界軸です。

 宗教的人間は、固定点(世界軸)によって聖化されない世界に生きることができません。空間は固定点(世界軸)を得ることによってはじめてコスモス化し、居住可能な「我らの世界」になります。この実例として分かりやすいのはスペイン人が新大陸に立てた十字架です。十字架は未開地を聖化し、コスモス化して、「我らの世界」に編入する働きを有したのです。




(上) Peter Paul Rubens, Kreuzabnahme, 1612, Liebfrauenkathedrale, Antwerpen


 旧約聖書をはじめとする世界各地の天地創造神話や洪水伝説を見れば分かるように、水は混沌と無秩序を象徴します。「レゲンダ・アウレア」のクリストフォロスが自力を恃んで渡ろうとした奔流は、水の象徴性が示す通り、秩序無き世界です。その只中で行き泥んだとき、クリストフォロスは自らの肩に乗せた幼子イエスのうちに、神とつながる世界軸を見出したのでした。このことにより、此岸におけるクリストフォロスは生きるための支点を与えられ、その生は意味あるものとなりました。すなわち幼いキリストを運んでいるつもりでいたクリストフォロスは、いつの間にかキリストに運ばれていたことに気づいたのです。

 また筆者(広川)が考えるに、クリストフォロスが渡る川は、ギリシア神話に出てくるレーテーの川や、仏教説話で言う三途の川と同じものです。ヤコブス・デ・ヴォラギネはクリストフォロスが川の水を飲んだとは伝えていません。しかしながら渡河後のクリストフォロスは以前の人格を全く忘れたかのように生まれ変わったのであって、これはまさしくレーテー(希 λήθη 忘却)そのものといえましょう。

 ヨハネが洗礼を施したヨルダン川も、レーテーの川、三途の川と同質です。キリスト教では水の洗礼で原罪を滅却しますが、この滅却も忘却の延長線上にあると考えてよく、洗礼は渡河と同質の儀式といえます。実際、古代の洗礼はヨハネが行ったのと同様に川や海で全身を水に浸して行なわれました。したがってクリストフォロスの渡河とは、洗礼の隠喩に他なりません。クリストフォロスは救い主を受け容れて水に浸ることにより、キリスト者として生まれ変わったのです。


 反宗教改革の時代に生きたカトリックの画家ペーター・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens, 1577 - 1640)は、アントウェルペン司教座聖堂翼廊の三翼祭壇画において、クリストゥストレーガー(独 Christusträger)すなわちクリストフォロス(希 Χριστόφορος キリストを運ぶ者)を主題に一連の作品を描き、「キリストを受け容れる信仰」という不可視のテーマを美しい絵画に表現しています。クリストフォロスという名の聖人は歴史的実在性を有しません。しかしながら「キリストを運ぶ人」という名の通り、クリストフォロスを「キリストを受け入れた信仰者」という意味に解釈すれば、数十億人のキリスト者によってこの上ない実在性を賦与された聖人であるといえましょう。





 本品は円形のメダイユです。円は被造的世界の象徴ですが、本品の輪郭は真円ではなく、わずかに歪(いびつ)です。工業製品的正確性を離れて歪さを残す輪郭は手仕事の温かみを感じさせるとともに、均質な無機的空間が世界軸たるキリストによって意味を与えられたさま、すなわちクリストフォロスあるいは信仰者の生きる世界が、キリストとの出会いによって聖なる空間へと変容したさまをも思い起こさせます。


 本品のエマイユは二色の青色不透明ガラスによるシャンルヴェ(仏 champlevé)で、中世以来リモージュで制作された聖具を思わせます。エマイユは非常に古いガラス工芸の技法で、古代エジプトやメソポタミア、古代ローマにおいて既に使用されています。すなわちエマイユはフランスだけのものではありませんが、西ヨーロッパではリモージュのエマイユ・シャンルヴェがロマネスク期以来よく知られており、メダイユにエマイユを合わせた本品はたいへんフランスらしい工芸品といえます。


 メダイユの向かって右端近く、幼子イエスの背の後ろに、ペ・アッシュ・セを組み合わせた文字(PHCH)があります。これは二十世紀フランスのカトリック・メダイユ彫刻でよく知られた彫刻家フィリップ・シャンボー(Philippe Chambault, 1930 - )のモノグラムです。メダイユの左端近く、聖クリストフォロスの頭付近には、ソミュールのメダイユ工房ジ・バルム(la société J. Balme)のモノグラム(JB)が見えます。

 フィリップ・シャンボーは 1930年8月9日、パリ南郊シャトネ=マラブリ(Châtenay-Malabry イール=ド=フランス地域圏オ=ド=セーヌ県)で生まれました。パリの応用美術工芸学校(École Nationale Supérieure des Arts Appliqués et des Métiers d'Art, ENAAMA)に入学して木彫りを中心に学んだ後、1954年にジョルジュ・セラ(Georges Serraz, 1883 - 1964)のアトリエに入り、それまで助手を務めていたアンリ・デュナンに替わってジョルジュ・セラの仕事を手伝いながら研鑽を積みました。

 シャンボーは 1961年にメダイユ工房ジ・バルムに入ります。この頃のシャンボーが住んでいたのはジ・バルム社のあるソミュールではなく、スイス国境に近いアルプスの村ヴァロルシン(Vallorcine オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏オート=サヴォワ県)でしたが、シャンボーは在宅でジ・バルムの仕事をしていました。

 ジ・バルムのためにメダイユを制作する傍ら、フィリップ・シャンボーは独自の創作活動も続けました。独自の作品には宗教をテーマにしたものが多く、ストラスブールの神学校のために制作したカルヴェール(仏 calvaire 十字架の場面を表したキリストと聖母の像)は代表作と考えられています。このカルヴェールは1987年に作られたもので、木とブロンズでできており、高さは三メートルです。現在はイスダンのバジリク・ノートル=ダム・デュ・サクレ=クール(La Basilique de Notre-Dame du Sacre-Cœur, Issoudun 聖心の聖母のバシリカ)の内陣にあります。

 パリ十八区にあるサン=ドニ=ド=ラ=シャペル(Saint-Denys-de-la-Chapelle)は、聖ジュヌヴィエーヴが聖ドニの墓所として創建したと伝えられるたいへん古い聖堂です。この聖堂の内陣入り口には安置されているノートル=ダム・デュ・サクレ=クール(Notre-Dame du Sacré-Cœur 聖心の聖母)も、フィリップ・シャンボーの作品です。





 上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が現物をご覧になれば、ひと回り大きなサイズに感じられます。









 本品はおよそ六十年も前に制作されたメダイユですが、たいへん珍しいことに、未販売のまま新品の状態で残っていました。保存状態はきわめて良好で、突出部分にも摩耗は全く見られません。重量は 12.2グラムで、五百円硬貨と百円硬貨の合計(13.0グラム)よりも少し軽量です。メダイユをペンダントとして日々愛用すると、裏面の突出部分が肌や服地と擦れ合って摩滅しますが、本品の裏面に浮き彫りは無く、突出した部分もありませんので、心置きなくご愛用いただけます。

 本品の作者であるフィリップ・シャンボーは高名なメダユール(仏 médailleur メダイユ彫刻家)で、メダイユ工房ジ・バルムを通じて多数の美しい作品を発表しましたが、現在ではどの作品も手に入らなくなりました。アンティーク市場でときどき見つかる不思議のメダイが、現在手に入れることができる唯一の作品です。私(広川)はフランスのメダイユを日頃から多く目にしますが、本品「聖クリストフ」はこの一点しか見たことがなく、本品が売れても再入荷はできません。


 当店の商品は現金一括払い、ご来店時のクレジットカード払いのほか、現金の分割払い(二回、三回、四回など。金利手数料無し)でもご購入いただけます。当店ではお客様のご希望に出来る限り柔軟に対応しております。ご遠慮なくご相談くださいませ。





本体価格 35,800円

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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