極稀少品 1849年1月6日 サン・ピエトロにおけるマンディリオンの奇跡 三位一体、受難する聖体 悔悛のガリアの十字架型メダイユ 52.8 x 30.6 mm 1884年

Adoration Réparatrice des Nations Catholiques Représentée à Rome


フランス  1884年



 1849年1月6日、主のご公現の祝日に、ヴァティカンのサン・ピエトロ聖堂において、聖遺物マンディリオンに痕跡を留めるイエス・キリストの顔が突如として鮮明になり、そればかりか立体的に盛り上がって、救い主の姿がまざまざと再現される奇跡が起こりました。この奇跡のマンディリオンは聖画に転写されて「悔悛のガリア」時代のフランスに入り、レオン・パパン・デュポンの崇敬を受けました。本品が作られた時にはまだ十一歳の少女であったリジュ―のテレーズもこの聖画を篤く崇敬し、聖女の没後、マンディリオンに現れた救い主の顔は一層広く知られるようになりました。





 本品はこの奇跡を浮き彫りで再現し、1884年にローマで行われた聖体礼拝の記念としたフランス製十字架、あるいは十字架型メダイユです。メダイユ彫刻の国フランスでしか制作され得ない優れた作品であり、十分に芸術品と呼ばれ得る水準に到達しています。


 本品の表(おもて)面最下部、すなわち十字架の基部には「ペナン、ポンセ 意匠登録済」(PENIN PONCET DEPOSÉ)の文字が刻まれています。リュドヴィク・ペナン(Ludovic Penin, 1830 - 1868)は、十九世紀前半以来四世代にわたってメダイユ彫刻家を輩出したリヨンのペナン家の一員です。豊かな才能を認められ、弱冠三十四歳であった1864年、当時の教皇ピウス九世により、カトリック教会の公式メダイユ彫刻家(仏 graveur pontifical)に任じられましたが、惜しくもその四年後に亡くなってしまいました。

 リュドヴィク・ペナンは 1870年代からアール・ヌーヴォーに至る時代を知らずに亡くなったわけですが、彼が遺した浮き彫りの多くは、忘れられるには惜しい作品でした。ペナンの作品群は三歳年上の同郷の芸術家ジャン=バティスト・ポンセ(Jean-Baptiste Poncet, 1827 - 1901)の手によっていわば現代化され、1870年代以降においても愛され続けました。ジャン=バティスト・ポンセは画家でもあり、メダイユ彫刻家でもある人で、素朴な作風のペナンに比べ、都会風に洗練された典雅な作風が特徴です。ペナンの没後にポンセが手を加えて現代化した作品は、信心具としてのメダイによく見られ、"PENIN PONCET", "P P LYON" 等、ふたりの名前が併記されています。


 サン・ピエトロにおけるマンディリオンの奇跡はペナンの生前の出来事ですが、本品が鋳造された 1884年の時点で、リュドヴィク・ペナンはすでに世を去っていました。本品はアール・ヌーヴォー様式ではありませんが、ペナンとともにポンセの名前も併記されており、ペナンが制作したメダイユの原型を用いつつも、元のままの意匠ではないことがわかります。筆者(広川)はペナンの原作を見ていませんが、おそらくマンディリオンの部分がペナンの手に拠るものと思われます。十字架型メダイの原型を作る際、ペナンのマンディリオンを縮彫機で交差部に写し取り、他の部分をポンセが彫ったのでしょう。




(上) 福者マルグリット=マリ・アラコック 慈しみと愛に満てるイエズスの聖心よ、われらを憐れみたまえ 多色刷り石版による小聖画 L. ブーレ 図版番号 94 フランス 1860 - 80年代 当店の商品


 十八世紀のヨーロッパでは啓蒙思想が興隆し、フランス革命を惹き起こしました。これに続く十九世紀には近代科学が大きく発達するとともに、帝国主義が力を得て、ヨーロッパ諸国は本土と植民地で戦火を交えました。プロイセン、フランス間で戦われた普仏戦争の結果、フランスではコミューンによる内乱が起こり、多数の人命が喪われて国土は荒廃しました。

 1864年8月19日、教皇ピウス九世は、マルグリット=マリ列福の小勅書を出しました。それからちょうど三年後の 1867年8月に、マルグリット=マリの第九十八書簡が公開されました。これはマルグリット=マリがパレ=ル=モニアルの修道院長に宛てた 1689年6月17日の手紙で、地上で辱めを受けたキリストが地上の君主に償いを求めていると述べた後、キリストが語ったという次の言葉を記しています。日本語訳は筆者(広川)によります。

     Fais savoir au fils aîné de mon sacré Cœur – parlant de notre roi – que, comme sa naissance temporelle a été obtenue par la dévotion aux mérites de ma sainte Enfance, de même il obtiendra sa naissance de grâce et de gloire éternelle par la consécration qu'il fera de lui-même à mon Cœur adorable, qui veut triompher du sien, et par son entremise de celui des grands de la terre.
   わが聖心の長子(ルイ十四世)に伝えよ。王は幼子イエスの功徳によって儚(はかな)きこの世に生まれ出でたのであるが、崇敬されるべきわが聖心に自らを捧げるならば、永遠の恩寵と栄光のうちに生まれるを得るであろう。わが聖心は王の国を支配し、また王を仲立ちにして地上の諸君主の国々を征服することを望むからである。
         
     Il veut régner dans son palais, être peint dans ses étendards et gravé dans ses armes, pour les rendre victorieuses de tous ses ennemis, en abattant à ses pieds ces têtes orgueilleuses et superbes, pour le rendre triomphant de tous les ennemis de la sainte Église.    わが聖心は王の宮殿にて統べ治め、王の軍旗に描かれ、王の紋章に刻まれることを望む。そうすれば王はすべての敵に勝利し、驕り高ぶる覇者たちの頭をその足下へと打ち倒し、聖なる教会のすべての敵を征服するであろう。
         
      (Marguerite-Marie d'Alacoque, Lettre IIC, 17 juin 1689, Vie et œuvres, vol. II, Paray-le-Monial)     (「マルグリット=マリの生涯と著作 第二巻」より、1689年6月17日付第98書簡)




(上) 稀少品 聖テレ―ズとイエスの聖顔 列聖直後に制作された「悔悛のガリア」のメダイ 直径 16.5 mm フランス 1920年代後半 当店の商品


 この啓示に対して、ルイ十四世とフランスは聞く耳を持たず、何らの反応も示しませんでした。1867年になって初めてこの啓示を知ったフランスの人々は、十八世紀、十九世紀にフランスを襲った災厄はすべて聖心に対する不敬のせいであったと感じました。この結果パリのモンマルトルをはじめとするフランス各地に、聖心に捧げたサクレ=クール教会が建立されました。またイエスの聖顔に対する償いの信心業も広まりました。フランスの国民的聖女であるリジュ―のテレーズも、「聖顔のテレーズ」(仏 Thérèse de la Sainte Face)を名乗っています。この時代のフランスは、イエスに対する償いを主題とした信心業が広まったゆえに、悔悛のガリア(羅 GALLIA PŒNITENS)と呼ばれます。





 本品は 1884年に製作された十字架型メダイユです。サクレ=クール・ド・モンマルトルの定礎は 1875年で、本品はその九年後に作られています。

 本品の十字架は幅広のラテン十字で、直線的で単純な輪郭を有します。縦木上端の三角形は三位一体なる神の象(かたど)りで、三角形の内部に刻まれた四つのへブル文字(הוה)は、テトラグランマトン(希 Τετραγράμματον)と呼ばれる神名の表記です。


 縦木下端には聖体顕示台があり、聖体には三文字のクリストグラム(仏 christogramme キリストを表す組み合わせ文字)が刻まれています。この三文字はローマ字(ラテン文字)の「イー・ハー・エス」(IHS アイ・エイチ・エス)ではなくて、ギリシア文字の「イオータ・エータ・シグマ」(ΙΗΣ)で、救い主イエスのギリシア語名イエースース(希 Ἰησοῦς)の語頭三文字に当たります。

 コルプス・クリスティ(羅 CORPUS CHRISTI)と呼ばれる聖体は、文字通り「キリストの御体」であり、聖体に現存するイエス・キリストは、ミサのたびごとに受難し給います。したがってイエスの聖名「イオータ・エータ・シグマ」が書かれた聖体は、十字架に架かる救い主の身体とまったく同じものです。本品において聖体顕示台の下には雲が表現されていますが、これは受難し給うキリストが、遂には死に打ち勝って復活し、昇天し給うたからです。

 キリスト教図像において、完全な図形であるは神のおわす天上を表します。キリスト教の聖堂建築、わけてもロマネスク聖堂において、アプス(後陣)のプランが聖堂東端から半円状に突出し、また聖堂上部にドームや穹窿(円天井)が架けられるのは、これらの部分が神の座なる天を象徴するからに他なりません。したがって本品においても、円形の聖体に記されたクリストグラムは、受難の後昇天し給うたイエスが、いまは天の玉座にて万物を主宰し給うことを表しています。





 横木の両端には、向かって右側にイエス・キリストの聖心、左側に聖母マリアの聖心が刻まれています。

 イエスの聖心はアルマ・クリスティ、すなわち救い主の受難を象徴する十字架と茨の冠を伴い、脇の槍傷からおびただしい血を流しています。キリストの受難は人知を絶する神の愛の極点であり、十字架を突き立てられ、茨の冠に傷ついたキリストの心臓は、あまりにも強く激しい愛ゆえに炎を噴き上げています。

 マリアの聖心はロサーリウム(羅 ROSARIUM ロザリオ)すなわち薔薇の花輪に取り巻かれ、悲しみの剣に刺し貫かれています。心臓は愛と生命の座であり、マリアの心臓はその上部から激しい炎を噴き上げて、神とイエスを愛する愛を視覚化しています。




(上) Nicolas Froment, Le Buisson Ardent, 1476, 410 x 305 cm, Cathédrale Saint Sauveur, Aix-en-Provence


 マリアの心臓から噴き出る愛の炎は、いわば分有(羅 PARTICIPARE)された神の愛に他なりません。マリアの心臓は曇りなき鏡として神とイエスの愛を反映し、イエスの聖心と同様の烈しい炎を噴出しているのです。マリアは人間ですから、神の愛の炎に焼かれる立場にあるはずですが、炎に焼かれながらも燃え尽きず、却って自ら烈しい炎を噴き上げる様子は、燃える柴を連想させます。「出エジプト記」三章によると、モーセが羊の群れを追ってホレブの山に来たとき、燃えているのに燃え尽きない柴(灌木 背の低い木)を見ました。モーセが見た燃える柴は、神の独り子イエスを宿しながら体に害を受けなかったマリアの前表です。

 上に示したのはルネサンス初期のフランスの画家ニコラ・フロマン (Nicolas Froment, fl. 1461 - 1483) の作品で、燃える木のなかに現れた聖母マリアと幼子イエス、それを見上げて驚くモーセと、モーセに現れた主の使い(天使)を描いています。この作品において灌木は薔薇として表されています。薔薇は愛の象徴であり、原罪に傷つかないロサ・ミスティカ、無原罪の御宿りなるマリアの象徴です。





 十字架の中央交差部には、イエスの聖顔(仏 la Sainte Face)が転写されたマンディリオン、別名ヴェロニカの布(きぬ)が浮き彫りにされています。

 伝承によると、十字架を担いでゴルゴタへの道をたどるイエスに、聖女ヴェロニカが布を差し出しました。イエスがその布で汗を拭いたところ、イエスの聖顔が奇蹟によって布に転写されました。聖遺物マンディリオン(希 Μανδύλιον)またはヴェロニカの布は、ヴァティカンのサン・ピエトロのバシリカをはじめ、数か所の聖堂や修道院に伝えられています。




(上) Hans Memling, "Diptychon mit Johannes dem Taufer und der Heilige Veronika, rechter Flügel", um 1470, Öl auf Holz, 32 × 24 cm, The National Gallery of Art, Washington D. C.


 イエスを十字架で苦しめたことへの償いと贖罪の業を行う信心において、聖顔への信心は大きな意味を持ちます。トゥールの聖者(Le saint homme de Tours)と呼ばれる尊者レオン・パパン・デュポンは、フランス革命時に破壊されたトゥールの聖マルタンの墓所を再発見したことでも知られますが、聖顔への信心を広めるべく三十年間に亙って教会当局と交渉を続けたことにより、聖顔の使徒(l'apôtre de la Sainte Face)とも呼ばれます。1876年にデュポンが亡くなると、その居宅はトゥール大司教区によって買い取られて改装され、聖顔の小礼拝堂(l'Oratoire de la Sainte Face)とされました。イエスの聖顔への信心は、その後 1885年に、教皇レオ十三世(Leo XIII, 1810 - 1878 - 1903)によって認可されました。本品の制作年代は 1884年ですから、ちょうどこれと同時期に当たります。




(上) レオン・パパン・デュポン宅に掛けられていた複製画。1849年1月6日に奇跡を起こしたマンディリオンが描かれています。


 1849年1月6日、主のご公現の祝日に、ヴァティカンのサン・ピエトロ聖堂でマンティリオンが公開されたとき、拝観に集まった大勢の信徒たちの目の前で、マンディリオンに転写された救い主の聖顔が突然鮮明度を増し、しかも立体的に浮き出て、救い主の顔を完全に再現するという奇跡が起こりました。




(上) 聖務日課書(修道者用の祈祷書)を持つリジューの聖テレーズ。1897年6月7日にリジューのカルメル会で撮影された写真。


 本品の十字架交差部に刻まれたイエスの顔は、1849年に奇跡を起こしたマンディリオンを写したものです。レオン・パパン・デュポンは 1851年にこの複製画を自宅の礼拝堂に掛け、聖顔の信心を広めようと努めました。リジューのテレーズも、これと同じ聖顔を崇敬していました。テレーズが亡くなった翌年の 1898年、この聖画は写真となって流布し、フランス社会にいっそう広く知られるようになります。





 キリスト教美術の歴史において、最初期のキリスト像はカタコンベに描かれた三世紀のフレスコ画です。この時期のイエスはひげが無い短髪の若者で、同時期のアレクサドリアでも同様のキリスト像が描かれます。この後、小アジアではキリスト像が長髪になり、四世紀後半のイタリア及び東方において、キリスト像はひげを持つようになります。

 近代のキリスト像はこの傾向をさらに推し進め、キリストは精神の偉大さを反映して、実年齢よりもずっと年上に見える姿となります。本品はこの傾向が最も顕著に現れた一例で、マンディリオンに写るイエスはずいぶんと老成した顔に彫られています。受難し給うキリストの老成した表情は「父」のイメージと重なりますが、これはペルソナ間のペリコーレーシス(希 περιχώρησις 相互浸透)に基づき、三位一体の愛を強調した表現と解釈できます。





 本品が作られた 1880年代、ほとんどのメダイや十字架はスクリュー・プレスによる打刻で製作されていました。しかるに本品は芸術メダイユと同様に鋳造されており、装身具よりむしろ信心具でありつつも、高い芸術性を有する美術工芸品となっています。本品の浮彫はたいへん立体的且つ細密であり、細部に至るまで手を抜いていません。

 上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。マンディリオンに転写されたキリストの顔は立体的で、平面的な痕跡が人の顔のように盛り上がったと伝えられる奇跡を再現しています。目、鼻、口から毛髪まで、各部分は一ミリメートルほどのサイズでありながら、浮き彫りは正確で均整が取れています。三角形とテトラグランマトン、クリストグラムを刻んだ聖体と顕示台、神の愛と神への愛を形象化した二つの聖心も、細部に至るまで精密に作り込まれ、その出来栄えは図像の小ささを忘れさせます。





 裏面には次の言葉がフランス語で刻まれています。

  Adoration Réparatrice des Nations Catholiques Représentée à Rome  カトリック諸国民代表による聖体礼拝 ローマにて


 フランスの「償いの礼拝信心会」(l'Œuvre de l'Adoration Réparatrice)会員をはじめ、救い主への償いを志すカトリック文化圏の人々は、1884年にローマへの巡礼を行い、聖体、すなわち今もミサのたびごとに受難し給う救い主の御体を礼拝しました。本品はこれを記念する「聖顔の十字架」です。





 本品は百三十年以上前に制作された真正のアンティーク品ですが、非常に古い年代にもかかわらず、保存状態は極めて良好です。細部に至るまでほぼ完全な形で残っており、突出部分もほとんど摩耗していません。筆者はフランスの信心具を長年に亙って取り扱い、研究していますが、この年代の品物が本品ほど良好な状態で見つかることは極めて稀です。本品は保存状態が良いだけではなく、浮き彫り彫刻の出来栄えの点でも、製作当時の時代精神を鏡のように映し出し、保存している点に関しても、最も魅力的なアンティーク品です。





本体価格 38,800円

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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