聖テレーズの聖遺物 エドモン・アンリ・ベッケルによる小メダイ付 オートゥイユ職業訓練孤児院の感謝記念品


聖遺物の布製小袋のサイズ 縦 33ミリメートル x 横 29ミリメートル

メダイのサイズ 縦 15.2ミリメートル x 横 10.4ミリメートル


ルリケールを開いたときのサイズ 縦 68ミリメートル x 横 128ミリメートル

ルリケールを閉じたときのサイズ 縦 68ミリメートル x 横 43ミリメートル


フランス  1920年代後半から30年代前半頃



 パリ十六区のオートゥイユ職業訓練孤児院が支援者に贈った聖遺物のセット。





 本品は三つ折りにして携帯できるサイズのルリケールとなっています。ルリケールを閉じた状態では、青い紙に金色の文字で「スーヴニール・ルコネサン・デ・ゾルフラン・アプランティ・ドートゥイユ」(souvenir reconnaissant des orphelins apprenti d'Auteuil)と記されています。フランス語で「オートゥイユで職業訓練を受ける孤児から感謝の記念品」という意味です。

 ルリケールを開くと、リジューの聖テレーズ(幼きイエスの聖テレーズ Ste. Thérèse de Lisieux, 1873 - 1897)の言葉がフランス語で書かれています。

     Je veux passer mon ciel à faire du bien sur la terre. Ste. Thérèse de l'Enfant Jésus
   私は地上に善を為すために天での時を過ごしましょう。 幼きイエスの聖テレーズ


 左側の扉には楕円の窓が開いており、イヴ(Yves)という幼い男の子の写真と、ふたりの女性の写真が入っています。写真はいずれもゼラチン・シルバー・プリントで、裏面の書き込みにより、1920年頃から 1955年までの間に撮影されたことがわかります。窓の下には金色の文字で「ス・ラ・プロテクシオン・ド・サント・テレーズ・ド・ランファン・ジェジュ」(仏 sous la protection de Sainte Thérèse de l'Enfant Jésus)と書かれています。フランス語で「幼きイエスの聖テレーズが加護を下さいますように」という意味です。





 上の写真は左右の扉を開いた状態です。中央には円形の窓が開いており、リジューの聖テレーズのメダイユが糸でリボンに留められています。窓の下には金色の文字で次のように説明されています。

     médaille/pétale bénit ayant touché les reliques de la petite Sainte    小さき聖女の聖遺物(遺体)に触れて祝福を受けたメダイユまたは花弁


 上に「花弁」とあるのは乾燥させた薔薇の花弁、または花弁を模した紙片のことであろうと思われますが、本品は花弁ではなくメダイユを縫い付けています。メダイユはフランスのメダイユ彫刻家エドモン・アンリ・ベッケルによる美しい作品で、指先に載る小さなサイズです。ベッケルはテレーズが列聖された 1925年頃にこのメダイユを制作しています。





 リジューのテレーズはフランスにおいて国の守護聖人のひとり (une patronne secondaire) とされるほど人気があります。テレーズの肖像はほとんどのメダイや聖画において半ば画一化されていますが、この人の肖像が画一的になりがちな理由は、テレーズが十九世紀末に生き、亡くなったためでしょう。

 イエス・キリストや聖母マリアをはじめ、古代や中世の聖人の場合は、実際の顔立ちを誰も知らないゆえに、芸術家は想像を自由に羽ばたかせて「肖像画」を描くことが可能です。しかしながらテレーズは写真が普及した時代に生きたゆえに、テレーズ本人の実際の顔立ちを誰もが知っていました。それゆえ芸術家が想像力を働かせる余地には限りがあって、テレーズの描写に自ずから制約が生じるのは仕方の無い面があります。

 しかしながらテレーズは写真でも絵でも彫刻でもなく、この地上に生きたひとりの女性でありました。生身の女性であった以上、宗教感情や喜怒哀楽など、さまざまな感情を日々の生活の中で体験したことでしょう。そのような感情は表情に活き活きと現れずにはいません。特にテレーズは多感な若い女性でもあり、神の御前に素直に心を開く修道女でもあったわけですから、生身のテレーズの表情が肖像写真のように画一化していることなど、実際にはあり得なかったはずです。


 その一方で、スケッチやスナップ写真の場合とは違い、メダイユ彫刻は一瞬を切り取ることを目的としていません。本品を制作したメダイユ彫刻家エドモン・アンリ・ベッケルは、信仰者テレーズの魂の「変わることがない在り方」、「本性的な在り方」を可視化しようとしています。

 有名な写真に写っているのもテレーズ本人には違いありませんが、頻繁に目にする写真や絵は、見慣れた人の心に訴えかける力を失いがちです。マンネリズム(様式化)に陥らず、かといって一時的な感情の描写や奇を衒(てら)った描写にもならず、テレーズの魂の「本質」、「変わらぬ姿」を活き活きと描き出すことができるかどうかは、メダイユ彫刻家の芸術的才能にかかっています。




(上) 1851年頃のダヴィッド・ダンジェ Lege & Bergeron, "David d'Angers", c. 1851, 11 x 7 cm, albumen print


 ルネサンス期のイタリアからフランスに伝わったメダイユ彫刻は、十九世紀に入ると優れた芸術性を備えるようになり、十九世紀末頃にひとつの頂点を迎えました。フランスのメダイユ芸術を開花させるのに最も大きな功績があった彫刻家は、ダヴィッド・ダンジェ (Pierre-Jean David d'Angers, 1788 - 1856)です。ダヴィッド・ダンジェはローマ賞をともに受賞した作曲家フェルディナン・エロルド (Louis-Joseph-Ferdinand Hérold, 1791 - 1833) の肖像メダイユを 1815年に制作し、この作品を第一作目として、その後四十年間に亙って肖像メダイユの秀作を産み出し続けました。国家に統制されて製作されるプロパガンダ用メダイユは、十九世紀初頭にはまったく無個性な紋切り型の物になり下がっていました。これと比べてダヴィッド・ダンジェの作品は、三次元的な浮き彫りによってモデルの個性を活き活きと描き出しており、その優れた芸術性は誰の目にも明らかでした。

 ダヴィッド・ダンジェは1827年から「『同時代人の肖像』シリーズ」("Galerie des Contemporains") の制作に取り掛かります。このシリーズのメダイユはすべてブロンズ製の片面メダイユで、顔を斜め前から描いたごく少数の例外を除き、横顔の描写となっています。横顔を好んで作品にすることについて、ダヴィッド・ダンジェは次のような趣旨の言葉を語っています。「正面から捉えた顔はわれわれを見据えるが、これに対して横顔は他の物事との関わりのうちにある。正面から捉えた顔にはいくつもの性格が表われるゆえ、これを分析するのは難しい。しかしながら横顔には統一性がある。」




(上) ダヴィッド・ダンジェ作 「マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール」 ブロンズ製大型メダイユ 直径 15.5センチメートル 当店蔵


 ここでダヴィッド・ダンジェが言っているのは、モデルの顔を正面から捉えて作品にする場合、その時その場でその人物(彫刻家)と向かい合っているという特殊な状況(一回限りの、個別的な状況)のもとで、その時限りの感情や、取り繕った体裁が顔の表情となって現れ、モデルのありのままの人柄を観察・描写する妨げになるのに対し、横顔には常に変わらないモデルの人柄が、ありのままの形で現れる、ということでしょう。その時限りの感情ではなく、ましてや取り繕った体裁ではなく、モデルとなる人物の生来の人柄と、それまで歩んできた人生によって形成された人柄を作品に表現するのであれば、横顔を捉えるのが最も適しているというダヴィッド・ダンジェの指摘には、なるほどと頷(うなず)かせる説得力があります。





 広く流布している肖像のテレーズは、薔薇の咲きこぼれるクルシフィクスを胸に抱き、正面すなわち肖像を見る人の方に顔を向けています。これに対して、本品に浮き彫りにされたテレーズは、薔薇の咲きこぼれるクルシフィクスを抱きつつも、正面を向かず、横顔を見せています。

 古来薔薇は愛の象徴であり、キリスト受難の象徴でもあります。クルシフィクスからあふれ出る薔薇は、十字架上にて極点に達した人知を絶する神の愛を、象徴的に可視化したものと考えることができます。それと同時に、神とキリストからテレーズへと向かう愛は、テレーズの魂の内に愛を呼び起こし、あたかも木霊が響き返すように、神とキリストへと向かいます。

 テレーズが薔薇の咲きこぼれるクルシフィクスを胸に抱き、正面を向いている肖像の場合、テレーズは肖像を見る人に視線を投げかけ、神との「愛し愛される関係」に招いています。しかるに薔薇の咲きこぼれるクルシフィクスを胸に抱くテレーズが、キリストのみに顔を向けている場合、テレーズと神との「愛し愛される関係」を、肖像を見る者は第三者的に眺めることになります。テレーズが正面向きであるか横向きであるかによって、肖像画の意味合いにもこのような違いが生じます。

 この違いはメダイユ彫刻の制作目的の違いであって、どちらかが他方よりも優れているということではありません。メダイユ彫刻に「宣教に役立つ信心具」としてのはたらきを求めるのであれば、正面向きのテレーズ像が適しています。なぜならば、正面向きのテレーズはメダイを見る者に視線を投げかけ、信仰へと招くからです。これに対して、メダイユ彫刻に「テレーズの魂の本質を見通し表現する芸術性」を求めるのであれば、横向きのテレーズ像が相応しいでしょう。なぜならば、ダヴィッド・ダンジェが語っているように、テレーズの横顔には聖女の生来の人柄と、信仰深い家庭生活及び修道生活で形成された人格が、ありのままに現れるからです。





 本品に彫られたテレーズは、カルメル会の修道女の服装、すなわち茶色の修道衣、薄茶色のマント、白のウィンプル、黒の頭巾を身に着け、微かな微笑みを浮かべつつ半ば目を閉じて、神との対話に沈潜しています。修道女として着衣したテレーズは神の花嫁であり、その全身全霊はキリストへの愛に向かいます。メダイの下部、縁に近いところには、「サンクタ・テレシア・アー・イエースー・イーンファンテ」(SANCTA TERESIA A IESU INFANTE ラテン語で「幼きイエスの聖テレジア」)と刻まれています。

 メダイユの右下にはエドモン・アンリ・ベッケル (Édmond Henri Becker, 1871 - 1971) のサインがあります。ベッケルは若くして才能を開花させた彫刻家で、サロン展には二十歳の時から参加し、幾度も賞を獲得しています。美術メダイユ彫刻、信心具のメダイユ彫刻の分野でも多くの作品を遺しています。ベッケルによるこのメダイユは、さまざまな彫刻家がテレーズを彫った数々の肖像のなかで、筆者(広川)が最も高く評価する作品のひとつです。

 上の写真に写っている定規のひと目盛は一ミリメートルです。本品は縦 15.2ミリメートル、横 10.4ミリメートルとごく小さなメダイユであり、テレーズの顔の高さも三ミリメートルあまりのサイズですが、ベッケルによる浮き彫りは目鼻立ちが整っているだけでなく、聖女の魂の内にある不可視の信仰をも可視化しています。コルプス(十字架上のキリスト像)はテレーズよりもさらに小さなサイズですが、キリストの腕も胴体部分が大型彫刻に勝るとも劣らない写実性を以て作られているのみならず、わずか 0.5ミリメートルほどの頭部にも整った顔立ちが彫られています。


  リジューのテレーズは 1925年に列聖されました。本品はこの頃に制作された作品です。正面向きの聖テレーズの写真は遅くとも 1910年頃までには流布していましたし、マリ=ベルナール修道士 (Fr. Marie-Bernard, 1883 - 1975)による薔薇を抱くテレーズ像は 1922年に完成しました。したがってテレーズ列聖の時点では、聖女像の様式化は半ば完了していたわけですが、メダイユ彫刻家エドモン・ベッケルは、いかにもプロフェッショナルの芸術家らしく、純然たる信心具制作とは異なる角度から作品制作にアプローチし、浮き彫り彫刻の内にテレーズの信仰を可視化することに成功しています。本品は驚嘆すべき細密さのミニアチュール彫刻であり、優れた芸術品として大きな価値を有します。





 右側の扉には左側扉と同様の楕円の窓が開いており、テレーズの聖遺物を封入した小さな布袋が入っています。聖遺物の種類は明記されていませんが、おそらく布片でしょう。上部の紐を除く布袋のサイズは縦 33ミリメートル、横 29ミリメートルで、白い面にはキリストの聖心アルマ・クリスティを伴って描かれています。本品に描かれたアルマ・クリスティは、最上部から時計回りに、「聖心に突き立てられた十字架」「海綿を刺した棒」「ローマ兵がイエスに持たせた葦」「釘抜き」「金槌」「鞭」「イエスの脇腹を突いた槍」、及び聖心に巻き付いた「茨の冠」です。

 リジューの聖テレーズはさまざまな呼び方で知られますが、そのうちのひとつが「聖顔の聖テレーズ」です。聖顔とはマンディリオン(Μανδήλιον)、すなわちヴェロニカの布(きぬ)に写った受難のキリストの顔のことです。聖顔への信心はキリストへの償いの信心であって、十九世紀後半から二十世紀前半のフランスに興隆した悔悛のガリア(羅 GALLIA PŒNITENS)の精神運動ともつながります。上記の「アルマ・クリスティ」に信仰の業を表す「釘抜き」が含まれる事実も、キリストを十字架から降ろして差し上げたいという当時の人々の気持ちを裏付けています。

 布袋の裏面は緑色で、アカンサスが織り出されています。アカンサス(ἀκάνθας)は罪の呪い(「創世記」 3:18)の象徴であり、は生命の色です。したがって聖遺物入れに使われている布の色は、救い主の受難によって贖われた罪びとの生命を表していると考えることができます。さらにフランス語に特有の事情を考えるならば、緑(シノープル sinople)はシノーペーの土の色、「シノーピス」(羅 SINOPIS)を語源とするゆえに、赤が象徴する「愛」までも含意します。したがって布袋の緑は神と救い主の愛をも表しています。


(下) Hans Memling, "Diptychon mit Johannes dem Taufer und der Heilige Veronika, rechter Flügel", um 1470, Öl auf Holz, 32 × 24 cm, The National Gallery of Art, Washington D. C.




 聖遺物の小袋を入れた窓の下には、オートゥイユ職業訓練孤児院院長であったダニエル・ブロティエ神父 (le père Daniel Brottier, 1876 - 1936) の言葉が金色の文字で記されています。

     Thérèse de l'Enfant Jésus bénira tout ce que vous ferez en faveur de ses petits orphelins. Daniel Brottier    あなたが小さな孤児たちのためにする全てのことを、幼きイエスの聖テレーズは祝福してくださいます。


 オートゥイユ職業訓練孤児院の創設者であるルイ・ルセル師 (l'Abbé Louis Roussel, 1825 - 1897) は、1895年まで初代院長を務めました。ルセル師には元教師である友人がいて、この人はルセル師が院長であった 1884年から、自らが没する 1912年まで、ルセル師に全面的に協力しました。この人は子だくさんでしたが、娘のひとりがリジューのカルメル会修道院に入り、1896年4月30日に修道誓願を立てて、マリ・ド・ラ・トリニテ(Marie de la Trinité フランス語で「三位一体のマリア」)を名乗りました。マリ・ド・ラ・トリニテ修道女は、カルメル会に入ったとき、先輩であるテレーズ・ド・ランファン・ジェジュ(Thérèse de l’Enfant-Jésus)修道女、すなわちリジューのテレーズに託され、二人は親しくなりました。

 テレーズはマリ・ド・ラ・トリニテ修道女を通してオートゥイユ職業訓練孤児院のことを知り、孤児院のために祈っていました。ブロティエ神父は「オートゥイユ職業訓練孤児院の礼拝堂を幼きイエスの福者テレーズに捧げる理由」("Nos raisons de dédier la chapelle de l'orphelinat d'Auteuil à la bienheureuse Thérèse de l'Enfant-Jésus") という一文を孤児院の機関紙に書きましたが、このなかにマリ・ド・ラ・トリニテ修道女による次のような回想が掲載されています。

     Quand papa m'écrivait une lettre depuis Auteuil, je la montrais à sœur Thérèse. Nous la lisions ensemble et ensemble nous priions pour les orphelins d'Auteuil.    父がオートゥイユから手紙を送ってきましたので、スール・テレーズに見せました。私たちは手紙を一緒に読み、オートゥイユの孤児たちのために一緒に祈りました。




(上) マリ・ド・ラ・トリニテ修道女とテレーズ修道女。リジューのカルメル会で撮影された写真。


 ブロティエ院長の先代に当たるミュファ院長は、1923年、オートゥイユ職業訓練孤児院を福者テレーズの庇護に委ねました。その直後に新院長に着任したブロティエ神父は、福者テレーズがオートゥイユ職業訓練孤児院の為に祈っていたことを、セネガルのサン=ルイ司教であったジャラベール師(Mgr. Hyacinthe-Joseph Jalabert, 1859 - 1920) から教えられ、テレーズに捧げた礼拝堂の建設を約束しました。

 1923年11月末、テレーズに捧げた礼拝堂建設への許可と協力を求めるために、、ブロティエ師はパリ大司教デュボワ師 (Mgr. Louis-Ernest Dubois, 1856 - 1929) との面会に出かけようとしていました。急ぎ足で車に向かうブロティエ師を、ひとりの女性が呼び止めました。とても急いでいたブロティエ師は、後にしてくれるように頼みましたが、女性は構わず、重病であった息子が福者テレーズの執り成しによって癒されたので、リジューのカルメル会とオートゥイユ職業訓練孤児院に感謝するために、贈り物を持ってきたのですと言いました。神父は女性に答えて、「テレーズに捧げた礼拝堂建設について、私は福者に祈り、返答を待っているのです。礼拝堂を建設すべきであるならば、印として、ある額のお金をお与えくださいと祈りました。福者にお願いした期限は四時間後で、まだ九千フラン足りません」と言いました。すると女性は持っていた封筒を神父に差し出し、「ご安心ください。一万フラン持ってまいりましたから」と答えたのでした。


(下) オートゥイユ職業訓練孤児院における「リジューの福者テレーズ礼拝堂」定礎式 コロタイプによる 1924年頃の絵葉書 1929年の消印あり




 1923年11月19日、ダニエル・ブロティエ神父が院長に就任した当時、オートゥイユ職業訓練孤児院は財政破綻に瀕しており、神父自身の言葉によると、「人間の努力のみでは救いようがない」("humainement parlant comme impossible à redresser") 状況でした。しかしながらブロティエ神父は、神、及び当時福者に列せられていたリジューのテレーズに祈りつつ、バザーを開いて数千人を集客し、寄付を募る広告を、孤児院の機関紙だけではなく一般の新聞にも出し、また教会の塀のみならず地下鉄にもポスターを張るなど、奮闘を続けました。

 1929年11月2日、ブロティエ神父はオートゥイユ職業訓練孤児院への貸付を募る広告を一般の新聞に掲載しました。社会の反響は大きく、数百万フランの貸付金が寄せられて、オートゥイユ職業訓練孤児院は建物が改修され、いくつもの作業場が新設されました。しかも貸付の期限であった 1932年になると、多くの人々が貸付金の返済を受けずに、そのまま寄付に切り替えてくれました。当時は第一次世界大戦の終結から間もない時代で、誰もが身近な人を亡くしていました。生き残った人自身の生活もたいへんでしたが、大戦の落とし子ともいえる孤児たちを人々が思い遣る気持ちも大きかったことがうかがえます。オートゥイユ職業訓練孤児院は、ル・ヴェジネ (Le Vésinet イール=ド=フランス地域圏イヴリーヌ県)の孤児院 (l'orphelinat d'Alsace-Lorraine) を1931年に引き継ぎ、その後も各地に孤児院を増設して、1936年までに十四か所の支部ができました。


 若者たちに慕われ囲まれるダニエル・ブロティエ神父


 本品に書かれたブロティエ神父の言葉をもう一度示します。

     Thérèse de l'Enfant Jésus bénira tout ce que vous ferez en faveur de ses petits orphelins. Daniel Brottier    あなたが小さな孤児たちのためにする全てのことを、幼きイエスの聖テレーズは祝福してくださいます。(ダニエル・ブロティエ)


 この言葉において、ブロティエ神父は「祝福する」という動詞を直説法の形で使っています。すなわち「ベニラ」(bénira)はフランス語の動詞「ベニール」(bénira)の直説法単純未来三人称単数という語形で、「祝福してくださいますように」ではなく、「祝福してくださいます」という断定的な言い方です。ブロティエ神父の言葉には、聖女の執り成しと、それによる神の祝福を身を以て体験した人ならではの、堅固な信仰心が読み取れます。





 本品の制作年代は、ダニエル・ブロティエ神父が存命中の 1920年代後半から 1930年代前半頃で、オートゥイユ職業訓練孤児院のために奮闘する神父の信仰を伝えるとともに、第一次大戦を経験したフランスの人たちの、孤児たちに手を差し伸べる優しい心が形を取った品物となっています。人を驚かせるような奇跡によらず、日々行う小さな愛の業によって神へと近づいていったリジューのテレーズの聖遺物は、優れた芸術作品であるエドモン・アンリ・ベッケルのメダイユと共に、ルリケールを手にする人の心を他者への思い遣りで満たしてくれます。

 本品はおよそ九十年も前のものですが、メダイも聖遺物も紙のケースに守られ、きわめて良好な保存状態です。特筆すべき問題は何もありません。写真が不要の場合、下記の価格から 1,000円を割り引きます。ご注文の際にお申し付けくださいませ。





本体価格 22,800円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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