1909年の「アグヌス・デイ」を中心に置き、花と宝石を模した金属細工やパプロール(paperoles 渦状に巻いた紙片)で周囲を飾った美しい品物。フランスの女子修道院で手作りされたアンティーク品です。
「アグヌス・デイ」(AGNUS DEI) はラテン語で「神の子羊」という意味です。信心具「アグヌス・デイ」の本体は、ローマ、サンタ・クローチェ聖堂のシトー会修道院で製作された蝋製の円盤で、一方の面に神の子羊が造形されています。本品の「アグヌス・デイ」は、1909年に、当時の教皇ピウス10世の祝福を受けた蝋で制作され、「無原罪の御宿り」と「神の子羊」を模(かたど)っています。
「アグヌス・デイ」は直径 1センチメートルほどの小さな物が多いですが、本品のサイズはおよそ 9 x 7センチメートルで、例外的に大きな作例です。片面には「無原罪の御宿り」、もう片面には「神の子羊」を、カメオ状(浮き彫り状)に造形しています。
「アグヌス・デイ」の片面において、柔らかい寛衣を着たマリアは蛇を踏みつけて球体の上に立ち、天を仰いで右腕を挙げています。球体の後ろには弦月が見えます。あたかも光り輝く冠のように、十二個の星がマリアの頭を取り巻いています。マリアの左右には「トータ・プルクラ・シネ・ラーベ」(TOTA
PVLCHRA SINE LABE) の文字があります。「(マリアよ、御身は)罪無くしてすべて美しい」という意味のラテン語です。
カメオとして造形されたマリアはたいへん立体的な造形です。マリアは左脚に体重を掛けたコントラポストの姿勢を執っていますが、胸の膨らみや、前に出した右脚の太ももの丸みなど、衣の下にうかがえる女性らしい体つきがよく表現され、じっと見つめていると生身のマリアを眼前に見るような錯覚に陥ります。
もう一方の面の上半分では、十字架を持った子羊が、「ヨハネの黙示録」五章に記されている書物の上に乗っています。十字架は旗竿になっており、十字架をあしらった軍旗型の旗が付いています。子羊をアーチのように取り囲んで、「エッケ・アーグヌス・デイー・クイー・トッリス・ペッカータ・ムンディー」(ECCE
AGNUS DEI QUI TOLLIS PECCATA MUNDI) と書かれています。これはラテン語で「見よ。世の罪を除き給う神の子羊」という意味で、洗礼者ヨハネがイエス・キリストを見て発した言葉(「ヨハネによる福音書」 1: 29)です。
この面の下半分には愛の炎を噴き上げて燃える「聖心」を中心に、「ピウス・デキムス、ポンティフェクス・マークシムス アンノー・セプティモー、1909」(PIVS X PONTIFEX MAXIMVS,
ANNO VII, 1909) と書かれています。これはラテン語で「教皇ピウス10世 在位第七年である1909年に」の意味です。ピウス10世
(Pius X, 1835 - 1903 - 1914) は第一次世界大戦の開戦を嘆きつつ亡くなった教皇で、1954年に列聖され、現在は聖人として崇敬を受けています。
楕円形のアグヌス・デイを縁取るリボン状の紙には、パプロールと金属の薄片による装飾が取り付けられています。「パプロール」 (paperoles)
とは幅数ミリメートル、長さ数センチメートルのリボン状の紙片を羊歯の芽状に巻いたもので、紙の切り口に金彩を施して金線細工を模しています。聖画等をパプロールで飾るのは
17世紀以来フランドルやフランス、ドイツで行われている方法です。
本品には、金属の薄片をリボン状の紙で巻いて、あたかもカット石をベゼル・セットしたかのように見せる20世紀ならではの装飾も使われています。宝石を模した金属片は赤、青、白の三色で、いずれも聖母の衣の色です。金属片を嵌め込んだ円柱状装飾は、本品において、「アグヌス・デイ」からハート形に突出するパプロール細工を補強する役割を果たしています。
本品の「アグヌス・デイ」は 1909年のものですが、周囲の装飾に使用されている金属の薄片は、私には 1920年代半ば頃のものに見えます。「アグヌス・デイ」の年代と、周囲の装飾の制作年代に十数年の開きがあることになりますが、1909年の「アグヌス・デイ」のために、後からフレームを制作したのでしょう。
本品の「アグヌス・デイ」は、あたかも宙に浮かぶかのような形で、周囲を取り巻く針金細工の植物装飾に支えられています。銀白色の六弁の花は白百合を表します。白百合は純潔の象徴であるとともに、神に選ばれた者としての身分の象徴、すべてを神に委ねる信仰の象徴でもあります。
「アグヌス・デイ」を取り囲む枠にはハート形のパプロールが多数取り付けられ、あたかも歯車の歯のように「アグヌス・デイ」から突出していますが、十輪の百合を模る針金細工はこれらのパプロール細工とうまくかみ合って、「アグヌス・デイ」を宙に浮かせつつ背面のガラスに押し当て、さらに「アグヌス・デイ」の傾きあるいは回転を防止する役目を果たしています。
花の中央には模造真珠が飾られています。
「マタイによる福音書」13章45節から46節に記録されたイエス・キリストのたとえ話には、真珠が登場します。該当箇所を新共同訳により引用いたします。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(「マタイによる福音書」13章45節から46節 新共同訳)
アレクサンドリアのオリゲネス (Ὠριγένης, c. 184 – c. 253) は、その著書「マタイ福音書注解」 10巻9節において、このたとえ話の「真珠」がキリストを意味すると解釈しています。百合が聖母を、真珠がイエス・キリストを象徴するのであれば、「百合の花に抱かれた真珠」は「聖母に抱かれたイエス」のアレゴリー(寓意、象徴的表現)と解することができます。
ちなみに本品の模造真珠は20世紀半ば以降によく見られるスペイン製の「マジョリカ」ではなく、フランス南部、オーヴェルニュで手作りされた「ペルル・ド・ジャカン」です。「ペルル・ド・ジャカン」(perle de Jacquin) はパリのロザリオ職人ジャカン (Jaquin) が 1680年頃に発明した古いタイプの模造真珠で、フランスでは 1920年代まで作られていました。
現在では「アグヌス・デイ」は作られなくなったので、アンティークの「アグヌス・デイ」は、いずれも貴重品ですが、とりわけ本品のように大きなサイズのものはめったに手に入りません。私は大きなサイズの「アグヌス・デイ」をこれまでに幾つか見ていますが、蝋をはじめ全体の保存状態の点でも、周囲を取り巻く細工の美しさの点でも、本品は最も優れた作例のひとつです。