脱進機(エスケープメント)の役割、及び型式

 FHF 59


 機械式腕時計のムーヴメント(時計内部の機械)において、「脱進機」(だっしんき エスケープメント escapement)という部分の形式が、時計の精度と耐久性に大きく影響します。腕時計でよく見かける脱進機には、精度が高く寿命が長い「クラブトゥース脱進機」と、精度が低く寿命が短い「ロスコフ脱進機」(ピン・レヴァー脱進機)があります。※

 ※このほかにもヨーロッパの懐中時計や腕時計にときおり見られる「シリンダー脱進機」がありますが、この形式の脱進機を見かけることはあまりなく、当店でもめったに扱わないので、解説を省略します。


 このページでは、最初に「脱進機」(エスケープメント)の役割について、次に「クラブトゥース脱進機」と「ロスコフ脱進機」(ピン・レヴァー脱進機)の違いについて解説いたします。


1. 脱進機の役割

 機械式時計の原理に関する解説で既に述べましたが、振り子時計で最も大切な部品は、振り子です。その「等時性」により、不変のペースで往復運動を繰り返す振り子こそが、振り子時計の本体です。

 携帯用時計、すなわち懐中時計と腕時計において、振り子は「天符」(てんぷ)に置き換わります。天符を構成する部品の一つである「ひげぜんまい」には振り子と同様の等時性があり、天符はそのおかげで、振り子と同様に、不変のペースで往復運動を繰り返します。懐中時計と腕時計が正確に動くのは、振り子の働きをする「天符」が、歩度(ほど 時間が進む速さ)を一定に保っているからです。天符は「速さを調(ととの)える」部品であるゆえに、その役割に基づく呼び方では、「調速機」と呼ばれます。


 左右に揺れる振り子や天符を単体で放置すれば、軸と軸受けの間に生じる摩擦、及び空気との摩擦によって、やがて止まってしまいます。それゆえ調速機に往復運動を続けさせるためには、外部からエネルギーを補給してやる必要があります。それゆえ機械式時計(振り子時計、機械式懐中時計、機械式腕時計)には、調速機を動かし続けるエネルギー源として、ぜんまいが搭載されています。

 ぜんまいは人の手でいったん巻き上げられた後、ふたたびほどけてゆくときに、エネルギーを放出します。ぜんまいがほどける力(ぜんまいのエネルギー)は、輪列(りんれつ 力が流れる経路となる歯車の組み合わせ)を伝わって調速機に達し、摩擦によって失われる運動エネルギーを補います。


 一般的な腕時計の場合、巻き上げられたぜんまいが完全にほどけるには約40時間を要します。この40時間が、ぜんまいを完全に巻き上げた場合の「パワー・リザーヴ」(英 power reserve 「蓄えた力の量」の意)です。ぜんまいが完全にほどける(パワー・リザーヴが尽きる)と、調速機へのエネルギー補給が停止し、天符の往復運動が止まって、時計が動かなくなります。

 ところでぜんまいが40時間かけてゆっくりとほどけるようにするには、工夫が必要です。この工夫に相当するのが、「脱進機」(英 escapement エスケープメント)とよばれる機構です。脱進機が無ければ、巻き上げられたぜんまいは、巻き上げる手を放したとたん、一瞬のうちにほどけてしまいます。プルバック走行するおもちゃの自動車を思い浮かべて下さい。腕時計のムーヴメントから脱進機を取り外し、ぜんまいを完全に巻きあげて手を放すと、腕時計は二分足らずのうちに恐ろしい速さで40時間ぶん進み、ぜんまいが完全にほどけて停止します。

 したがって時計が40時間動き続けるためには、脱進機が必要です。脱進機とは、調速機に対し、適切な量のエネルギーを少しずつに分けて供給する機構のことです。先ほどから調速機の原理的な重要性を強調してきましたが、実際の時計において、脱進機は調速機に劣らず重要です。機械式時計の心臓部分ともいうべき調速機と脱進機を、合わせて「調速脱進機」と呼んでいます。「調速脱進機」は機械式ムーヴメントの最も重要な部品です。


2. 脱進機の二形式 --- 「クラブトゥース脱進機」と「ロスコフ脱進機」(ピン・レヴァー脱進機)

 脱進機は二つの部品、すなわち特殊な形状の歯を有する「ガンギ車」という歯車と、フランス語で「アンクル」(ancre) と呼ばれる二又のフォーク状(あるいは錨状)の部品から成り立っています。後者の部品の名称は、わが国ではフランス語をそのまま使って「アンクル」と呼んでいます。※

.... ※ アンクルは、ドイツ語では「アンカー」(der Anker) といいます。フランス語「アンクル」(ancre)、ドイツ語「アンカー」(Anker) はいずれも「錨(いかり)」の意味で、言葉の上では英語の「アンカー」(anchor) にあたります。

 ただし英語では、この部品を「アンカー」ではなく、「パレット・フォーク」(pallet fork) と呼んでいます。「パレット」とは「歯車の回転を止める爪、歯止め」のことで、パレット・フォークとは「爪付きのフォーク」という意味です。

 英語では「パレット・フォーク」を単に「レヴァー」(lever) ということもあります。「ジュエルド・レヴァー」(jeweled lever 「石付きアンクル」の意)とはクラブトゥース脱進機のアンクルのこと、「ピン・レヴァー」(pin liver 「ピン式アンクル」の意)とはロスコフ脱進機のアンクルのことです。


 脱進機にはふたつの型式、すなわち「クラブトゥース脱進機」と「ロスコフ脱進機」(ピン・レヴァー脱進機)があります。このふたつの型式は、アンクル及びガンギ車の形状が大きく異なっています。

 下の画像は1949年の「スイス時計協会」の広告から採ったイラストで、それぞれの脱進機に使われるアンクル及びガンギ車の形状を示しています。左が「クラブトゥース脱進機」、右が「ロスコフ脱進機」(ピン・レヴァー脱進機)です。






・クラブトゥース脱進機

 「クラブトゥース」(crab tooth) とは英語で「蟹(かに)の爪」のことで、ルビーの爪がふたつあるアンクルの形状に由来する名称です。このアンクルの形状は、後述する「ロスコフ脱進機」(ピン・レヴァー脱進機)のアンクルとは大きく異なります。またクラブトゥース脱進機のガンギ車は、ロスコフ脱進機のガンギ車に比べて、より複雑な形状をしています。

 下の写真はクラブトゥース式調速脱進機を構成する部品で、左から右に、天符、アンクル、ガンギ車です。各部品は時計の裏蓋を開けると見える側を上にして撮影しました。実際のムーヴメントにおいて、各部品は密接して配置されていますが、ここでは見やすいように間隔をあけて並べました。





 クラブトゥース脱進機のアンクルにはふたつの爪、すなわち「入り爪」(いりづめ)と「出爪」(でづめ)があります。子供用など一部の時計を除き、クラブトゥース脱進機のアンクルに取り付けられている二本の爪(「入り爪」と「出爪」)は、いずれもルビーでできています。




 アンクルの棹(さお)の、天符側の端(すなわち爪が付いているのとは反対側の端)は三叉のフォーク状になっています。三叉の真ん中の突起を「ケン先」といいます。いっぽう天符の中心近くには、「振り座」という円盤状の部分があって、ここにはルビーの柱が取り付けられています。この柱を「振り石」といいます。

 下の写真は時計の文字盤側を上にして撮影しました。天符中央の銀色部分が振り座、そこに取り付けられているルビーの柱が振り石です。実際のムーヴメントにおいて、アンクルのケン先は振り石と密接して配置されています。天符の往復回転運動に伴って振り石が動き、左右から交互にケン先に衝突します。このことにより、アンクルはアンクル真を支点にして首振り運動をします。





 下の写真はフォンテンメロン社の女性用手巻ムーヴメント「キャリバー59」の調速脱進機です。実際のムーヴメントでは、天符とアンクルとガンギ車はこのように密接して力を伝えあっています。





 「首振り運動」をするアンクルの爪がガンギ車を動かす原理については、簡略化して述べるのが難しいので、説明を省きます。要は、アンクルの二本の爪には「ガンギ車を歯一つぶん進める」働きと、「その次の瞬間に、ガンギ車の回転を止める」働きがあり、この二つの作用を一秒間に数回のペースで連続して繰り返します。このせいで時計が一定のペースを守って少しずつ進むのです。

 仮にアンクルを取り除いてガンギ車が自由に動くようにすると、輪列を流れてきた主ぜんまいのエネルギーは、あたかも底が抜けた樽から水が一挙に流れ出すように、一瞬のうちにすべて放出されてしまいます。



・ロスコフ脱進機(ピン・レヴァー脱進機)

 ロスコフ脱進機(ピン・レヴァー脱進機)は目覚まし時計などのクロック、及び廉価な腕時計、懐中時計に使われる脱進機です。下の図の左側はクラブトゥース脱進機、右側はロスコフ脱進機(ピン・レヴァー脱進機)です。




 クラブトゥース脱進機と比較すると、ロスコフ脱進機(ピン・レヴァー脱進機)には「ガンギ車の歯の形が単純である」「アンクルにルビーの爪が無く、金属製のピンで代用している」という特徴があります。

 下の写真はムーヴメントに搭載されたロスコフ脱進機です。アンクルにルビーの爪ではなく金属製のピンが使われているのが分かります。


 BF cal. 866 (BAUMGARTNER Frères S.A.)




 ロスコフ脱進機(ピン・レヴァー脱進機)は精度が低いうえに寿命が短いので、使い捨ての時計に搭載されます。したがって、ロスコフ脱進機を搭載した懐中時計、腕時計は、あらゆる点で品質が低い「安物」です。

 上の写真は「バウムガルトナー キャリバー 866」(BF866) というムーヴメントを搭載した懐中時計です。ロスコフ脱進機を採用したウォッチ用ムーヴメントのなかでも BF866は比較的ましな品質ですが、時計全体の作りは脱進機以外の点でも安っぽさが否めません。たとえば上の写真ではアンクルの左手前に干支留(えとどめ)ネジ、そのすぐ左側に干支脚(えとあし)が写っています。この時計の文字盤をクリスタル(風防、ガラス)越しに見ると瀬戸引(琺瑯、エナメル、エマイユ製)のように見えるのですが、干支脚を見ると実はプラスチック製であることが分かります。


 なおロスコフ脱進機の写真撮影に使用した時計はサンプルです。当店ではロスコフ脱進機の腕時計、懐中時計を商品として扱いません。ムーヴメントの良し悪しは外見から判断できませんが、当店の懐中時計、腕時計はすべてクラブトゥース脱進機を搭載した高品質の商品ですので、知識が無い方がデザインだけで選ばれても安全です。ご安心ください。




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