植物的な曲線と左右非対称の意匠によるアール・ヌーヴォーのガラス製品。センチメンタル・ジュエリーのセンター・ピースとして百年以上前にフランスで作られた作品ですが、製品にならないまま未使用の状態で残っています。
本品は曙光が射し始めた海辺を背景に、薔薇と一体化した女性像を描きます。この女性は曙の女神エーオース (Ἠώς)、ラテン語で言えばアウローラ
(AURORA) です。海を背景にエーオース(アウローラ)を表したこの作品は、おそらく「イーリアス」の一場面(第一巻 477)から着想を得たのでしょう。
(上) Guido Reni, "L'Aurora", 1612 - 14, affresco, il Palazzo Pallavicini Rospigliosi, Roma
ホーメロスやヘーシオドスにおいて、エーオースは「ロドダクテュロス」(ῥοδοδάκτυλος 「薔薇の指の」)というエピセット(epithet 形容辞)を伴い、「ロドダクテュロス・エーオース」(ῥοδοδάκτυλος
Ἠώς )、すなわち「薔薇色の指のエーオース(アウローラ)」と呼ばれています。「ロドダクテュロス」は、兄である太陽神アポローンの先駆けとして天空を駆ける曙の女神エーオース(アウローラ)に、いかにもふさわしく美しい句です。
本品の材質は酸化銅、コバルト、鉄を加えた漆黒の不透明ガラスで、ジェット(漆黒の褐炭)を模しています。ジェットを模したこのようなガラスを「ジェ・ド・パリ」(jais
de Paris フランス語で「パリのジェット」の意)と呼びます。「ジェ・ド・パリ」はガラスですから、ジェットよりもはるかに硬いですが、本品の裏面は手作業で研磨を施して、丁寧に仕上げられています。
裏面の突出部分を横から見ると台形になっています。「ジェ・ド・パリ」のセンターピースは金属製の台に嵌め込まれることが多くありました。針金細工や磁器、エポキシ樹脂等で台を作れば、オリジナルのビジュ(bijou ジュエリー)を自作できます。
上の写真は店主(男性)の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になると、もう一回り大きなサイズに感じられます。
19世紀後半のイギリスではモーニング・ジュエリーをはじめとする黒いセンチメンタル・ジュエリーが大流行し、ヨーロッパ大陸に伝わりました。また同じ時代に日本の美術工芸品がヨーロッパの人々を虜(とりこ)にし、アール・ヌーヴォー様式が生まれました。いずれも個性的な二つの様式が、たまたま時と場所を同じくして、19世紀後半のヨーロッパに開花したのです。
正確に言うと、19世紀の黒いセンチメンタル・ジュエリーは 1860年代のイギリスで生まれましたが、イギリスにおいては 1885年頃までに黒いジュエリーは飽きられ、人気は銀製ジュエリーに移っていました。一方アール・ヌーヴォーが本格的に流行するのは
19世紀末であり、イギリス本国において、黒いジュエリーはそれ以前に廃れていました。本品はフランスで制作されたものであるゆえに、ジェ・ド・パリ(漆黒のガラス)とアール・ヌーヴォーが同居しているのです。
黒いセンチメンタル・ジュエリーも、アール・ヌーヴォーのジュエリーも、いずれも美しく稀少なアンティーク品です。本品はこれら二つの様式を兼ね備えており、二重の意味で珍しい作例ということができます。本品は19世紀末頃のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、稀少な未使用品です。保存状態は極めて良好で、十分に実用可能です。特筆すべき問題は何もありません。